ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2010年10月17日
 少女共和国(2) (講談社コミックスキス)

 新任の教師はほくそ笑む。〈オトナ ナメんじゃねーぞ〉と。〈自分ならうまくやれるって思ってるよーだけど その自信は貧困な知識と想像力の産物だってこと おぼえといたほーがいいぜ いつか なにもできない自分を目の当たりにするよ〉と言うのである。そして少女は無理解な大人に対して〈先生――無知が愚かと言うなら 子供の気持ちへの親や教師の無知も愚かと思っていいんですね――〉こう憤り、次のように思うのだった。〈子供 ナメんじゃねーよ〉

 森下薫の『少女共和国』は半径の狭い社会に追い詰められた中学生のあらがいを描く。この2巻で完結した。1巻の段階では、もっと壮絶な果たし合いが繰り広げられるのかと思われたが、存外『中学生日記』的なレディメイドに終始している。しかしそのエモーションの切実さ、たとえば誠実さを望めば望むほど何もかもが裏返ってしまうような通念を前に膝を折りかけながらも、小さな希望をぎゅっと握りしめ、ふたたび未来を信じたいと願う様子には、間違いなく、こちらの胸へ届いてくるものがあった。

 トーコの機転によって、寛容さに乏しい担任の古関を陥れ、安息の日々を得た2-1クラスだが、代わりにやってきた日向は余計癖のありそうな教師であった。実際、彼はトーコの本性をいち早く見抜くと、激しい揺さぶりをかけてくるのだった。表向き、トーコと日向の対決をベースに物語は進んでいくのだけれども、全編の結末にあきらかなとおり、本質は、少々違う。日向は、トーコや子供たちの敵ではなく、あくまでも大人の立場を生きたい人間として登場している。このことの説明は難しく、ほとんど古関との比較でもって述べるしかないのだが、古関が大人であるかぎりは子供の敵以上の役回りが与えられていなかったのに対し、日向の場合、大人と子供の二項は必ずしも対立すべき概念ではない、という可能性を持たされているのである。

 正直な話、日向をもっとニヒルなタイプに仕立て、トーコとの対決を激化させた方が、ストーリー上のスリルは高まったろう。盛り上がったに違いない。そこが残念にも思われるのであって、結局のところ、日向の善意とでもすべき点がレディメイドな感触をもたらしているのだったが、もちろん、彼の第一印象がとりあえずのミスリードを狙っていたのだとすれば、それは決して失敗していないし、結果、古関とはべつの役割が担わされることとなっている。

 もしも簡単にまとめて良いなら、『少女共和国』のテーマとは、この世界の限定性のみを見、それを否定、変えてしまうことではなく、この世界の広さ、美しさを認め、いかにそれを受け入れるべきか、にある。クライマックスにルイ・アームストロングの「What A Wonderful World」が用いられているのは、まあ確かに、象徴的だ。そしてそのとき、トーコにとっての日向は、人生を先取りした存在、ある種の導き手にほかならない。いろいろなことを知りながら大人になるのは悪じゃないよ、という提言を果たしているのだと思う。

 しかしそれにしても、だ。どこまでが作者の意図なのかはわからないが、おもな登場人物のなかで、もっとも学校を嫌っていたトーコが進学し、他の三人(運野、ルイ、峰ちゃん)が日本の教育からドロップアウトしたかのようなラストを幸福と呼ぶのは、いくらか皮肉が過ぎる。

 1巻について→こちら
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバック