ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2010年10月13日
 フィクションのアウトサイダーにとってカリスマとは何か、の問題は今や主人公のポエム力に発揮されるものとなってしまった。こうした傾向は、和久井健の『新宿スワン』にまで及んでいるのだったが、ことヤンキー・マンガにかぎっていえば、柳内大樹の『ギャングキング』に顕著であろう。もしかしたら、昔からそうじゃん、と見られる向きもあるかもしれない。しかし、ここで留意しておかなければならないのは、現在の多くが、ストーリーやプロットを通じ、説得力の足しをつくっているのではなく、なんとなく気の利いたセリフを作中人物に自信満々で喋らせておけば全体の辻褄が合っていることになるんじゃねえの、ふうな誤魔化し、でっち上げにしかなっていない点なのであって、個人的にそれをあまり良しと思わない。背景に一本筋の通ったところを確認できず、かわりにポエム力を増長させるあまり、吉田聡の『湘南爆走族』やきうちかずひろの『ビー・バップ・ハイスクール』の頃にはあったハードボイルド性を薄れさせているのは、やはり時代性なのかもしれない。

 かくいう時代性を等しくしながらも可能性を感じさせるのは、奥嶋ひろまさの『ランチキ』のような作品である。ひとまず特徴として述べておきたいのは、確かに主人公の主人公たる資質はポエム力に委ねられているのだけれども、反面、腕力の強みはほとんど取り去られてしまっている。このおかげで、なぜポエムが正当化されるのか、それはね、ケンカの勝者が言っているからだよ、なぜ腕力が正当化されるのか、それはね、ポエム力があるからだよ、というトートロジーに陥ることを免れているのだった。口八丁の人物が成り上がりを達成していく様子は、鈴木大の『ドロップ』コミカライズ(掲載誌が一緒)に近接しているが、『ランチキ』のほうが、根性を見せることに対しての照れが少ない。外的な要因によって、というより、内的な必然によって、不良少年ならではの欲望の駆動されている印象が高まっているのだ。

 さてしかし『ランチキ』においてポエム力がいかなる効果を持っているのか。それは、まあ主人公自身にまつわるエピソードではないものの、この4巻で五島が種田双子の兄にどのような影響を与えたかのくだりにもよく示されている。五島本人の言葉を借りるなら〈あーあれか…単純やな…………〉程度の出来事にすぎないのだけれど、そこには正しくポエム力のなせるワザが認められるのである。だが、五島でさえも主人公の鹿野乱吉には〈こいつには口ゲンカでは敵わへんな…〉なのであって、そういうへらず口では負けを知らないような面が、彼を主人公たらしめているのは間違いない。五島に〈こいつには口ゲンカでは敵わへんな…〉と思わせたのは〈俺はなぁ 半殺しなんて怖くねぇ! 俺が怖いのは半分死んだみたいに生きることじゃ!〉というセリフに与えられたポエム力にほかならないのだが、いやもう、これはこれでやたら燃えてくるものがありますぜ、であろう。とはいえ、ストーリーやプロットのレベルで、乱吉ならそう意気込んでも不自然ではない、発言の中身にも頷ける、十分な裏づけがとられているので、思わず、がっとくる。

 乱吉の場合、ハートの強さに実際の腕力が追いついていない。このギャップが、物語の中軸をなすと同時に、ポエム力を顕在させているのだ。他方、『ランチキ』とは、チーム「鹿金(シカバネ)」の二人、乱吉と金田鉄雄(キム)のバディものでもある。十分な腕力がないので言葉が先走るばかりの乱吉と口数は少ないが立派にケンカのできるキム、彼らの関係は、言うまでもなく、ある種の対照となっている。結果、キムの活躍が目立てば目立つほど、乱吉の存在は相対化され、矮小なイメージを背負わされてしまう。当然、ジレンマが生じる可能性もある。そのような予感を、誌衛館高校との対決において、キムの仇をとるつもりであった乱吉が敗北し、反対にキムが乱吉の仇をとって勝利する、という展開はうかがわせる。

 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
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