ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年04月13日
 悲劇週間

 遅ればせながら、この物語世界をひじょうに堪能したのだ、僕は。矢作俊彦の『悲劇週間』である。20歳の頃の、詩人・堀口大學を語り手に、史実の隙間をフィクショナルな想像力によって埋めるようにし、この長編小説はつくられている。大逆事件の余韻が残るなか、与謝野晶子への淡い想い、佐藤春夫との友情、そして石川啄木に対する不快などが綴られた序盤からして、とてもとてもわくわくさせる、壮麗なロマンのイントロダクションに、じつに相応しい。が、しかし、やはりお楽しみは、外交官である父親に呼び寄せられ、メキシコに渡ってからの日々、『悲劇週間』それ自体の本編ともいえる、恋と革命に翻弄される、若き詩人の、二度と帰らぬ青春劇であろう。当然のように、彼の地でも、歴史上の著名人たちや、いくつもの挿話が、物語に彩りを添えている。寡聞にして僕には、これがどれだけ史料に忠実であるのか判ずることはできず、もしかすると大規模な与太話なのかもしれないけれど、しかし、つよい説得力をもって、その話の渦中に引き込まれたのには、大きくいえば、ふたつの理由があると思う。ひとつには、登場人物たちの運命を変えるような西欧化の流れが、今日におけるアメリカ主体のグローバリズムと、あたかも相似形であるふうに見えること、つまり、けっして他人事ではない、ある意味で現代的かつアクチュアルな出来事の連鎖が、小説それ自体を駆動させている。そして、もうひとつには、〈ぼく〉こと堀口大學のキャラクターである。実在のレベルにおいても、大學は、厳密な定義上の明治人ではなかった。ある程度近代化を受け入れたあとの日本に生まれた人物であるからだ。そのため、彼の自意識または日本人であるというアイデンティティの重たさは、読み手であるこちらのそれと、かなり近しいのではないかという、おそらくは、そのような根拠に拠って、ひとつの時代の流転が、観察されている。彼よりも年長の登場人物にくらべ、国家という枠組みは、それほど不自由な足かせではないように見える。がゆえに、異国の地を、自分の足どりで、わりと勝手に、闊歩できるわけだ。簡単に言い換えると、ひじょうに感情移入しやすいふうにつくられた語り手なのだといえる。あるいは、逆に、だからこそ『悲劇週間』の語り手として、作者に選ばれたのに違いない、堀口大學という人物は。赤く抽象的な血のイメージから、黒く具体的に焼かれた死体の広がる光景へと導かれてゆくように、革命はやがて苦々しい結末を迎え、大學の恋は、物悲しくもうつくしく、そして遠い記憶へと過ぎ去ってゆく。主題が、ひとつぽんっと小説のうえに置かれているのではなくて、法や規律、歴史との軋轢などなど、世界のうちにある複雑さを思わせるほどの数、小説のなかに含まれているとして、人が生きていく価値において、もっとも尊いものは何かといえば、やはり、かけがえのない情熱であろう、そのことだけはきっちりと明言されている。ロマンの醍醐味である。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(06年)
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