ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2010年10月10日
 小説宝石 2010年 09月号 [雑誌] 小説宝石 2010年 10月号 [雑誌]

 よしもとよしともの『噛みながら』は、長嶋有漫画化計画の一環として『小説宝石』の9月号に前編が10月号に後編が掲載された作品である。長嶋の『僕は落ち着きがない』は既読であるものの、そこから派生した直接の原作小説に関しては(現在の段階では正式にリリースされておらず)目を通せていないため、ここではあくまでもよしもとの作家論的に話を進めていくことにしたい。

 今さら指摘するまでもないが、よしもとのマンガにおいて、死者の存在は、しばしば、重要なモチーフをなす。言うまでもなく、死者とは彼岸へ向かう者のことである。そしてそこには、此岸、つまりは我々が生きているこの現実をどう見つめるか、の問題が集約されているように思う。過去の作品を参照してみればあきらかなとおり、死者からの視線を意識し、それによって物語や構図が定められているケースというのは、決して少なくはないのだ。

 たとえば『青い車』(95年)を思い出されたい。主人公と女子高生のペアは、主人公の恋人=女子高生の姉が他界していることを共有していたのであって、ラストに近い箇所、女子高生の告白のなかで〈でも苦しいよ チクチクするんだ〉と言われている痛みは、一つの側面を取り出してみせるなら、まず間違いなく、死者である姉に応答した態度としてあらわれている。その前段に置かれた〈ねえ もし 神様がいたらさ きっと あたし達のこと 雲の上から観察してるんだ くそくらえだわ〉という印象的な呟きもまた、同様に受け取れる。神様と仮定されている背後には、おそらく、姉という死者の存在が意識されているのだ。こう考えるとするならば、『青い車』とは、此岸にとどまり、死者から見られている側の物語といえるだろう。低いカメラで登場人物を下から捉まえたような構図が多いのは、作品の焦点が彼らのいる場所=地上よりも高い位置に合っているからなのである。

 死者を向こうに回すことで、此岸に生きることの煩わしさを『青い車』は散文化しているのだったが、このような触感は、初期作『7-12』(86年)の時点ですでに確認できる。

 さてしかし、もう少しばかり発表の近いところから『噛みながら』と比較すべき作品を出しておきたい。『アヒルの子のブルース』(98年)である。そこでは、主人公の少年にあたかも此岸と彼岸のあいだに宙吊りされているかのようなイメージが与えられている。無論、いやあの少年は子供と大人とに切り分けられたあいだを浮遊しているのだ、との解釈も十分に許されるのだったが、それは時間の軸といおうか、縦の線を抽出しているにすぎない。死者との約束=現実の残酷さを前に果たされなかった約束が、少年の気を強く引いている以上、空間の軸として判断されるべきは、やはり此岸と彼岸のあいだを渡っているのであって、そのような横の線と先ほどの縦の線が交錯しつつ、ねじれ、深く絡まってしまっているところに『アヒルの子のブルース』のエモーションは託されている。

 これとよく似た成り立ちを『噛みながら』は持っていないか。すなわち、大人、子供、此岸、彼岸、の境界を四方に抱くどこかで混乱し、来し方はともあれ、行く末を曖昧にぼかされてしまった人物の、その心象を描いているのである。

 作中の設定などは、おおもとのアイディアである『僕は落ち着きがない』に程よく忠実だといえる。『僕は落ち着きがない』では不登校児だった頼子を主人公に、成長した彼女が偶々銀行強盗の現場に出くわし、その渦中で脳裏に去来する数々、高校生であった頃の記憶と、じっさい目の前で繰り広げられている椿事とが、まるで白昼夢のように、入れ替わる。この往復運動によって、大人、子供、此岸、彼岸、の境界が次々提示される仕組みとなっているのである。時間の軸を無視して聞こえてくる〈あんた 強盗に撃たれて死んだんだよ 頼子〉というセリフに暗示的なとおり、銀行強盗の所有した銃器は、死んでしまうこと、言い換えるならば、取り返しのつかなくなる可能性を孕み、我々が生きているこの現実を、頼子に突きつける。取り返しのつかなくなる可能性が、もはや過去でしかありえない出来事をもほじくり返す。やがて彼女は思うだろう。〈何もかも終わってたんだ あたしが引きこもっている間に〉

 しかしながら、物語上のカタルシスは、頼子が、取り返しのつかなくなる可能性のなかで逆立ち、意表をつく行動に出、もしかしたらこの現実も自分の運命もこの世界ですらも変えられるかもしれない、という期待をはっきり教えてくれているところにある。

 そのような点、〈得るために失うものがあるとしたら あたしたちは何を失くして 何を得たのか〉と悩み、〈恋人ができたり 別れたり 仕事がうまくいかなかったり 生きていくのは大変さ あの頃みたくヘコむ事がいくらだってあるんだ〉と実感していた主人公が、ついには〈スッゲー悔しいけど 仕方ないや 思った通りやったんだもん〉と気分をあらためていくあたり、確かに『アヒルの子のブルース』のカタルシスと通じるものがある。けれども、両者を並べたさいに重要なのは、『アヒルの子のブルース』では、あたかも此岸=我々が生きているこの現実は、彼岸から見られているかのごとく、地上から離れ、上空からのカメラで捉まえられたショット、構図を多用、表されていたのに対し、『噛みながら』において、作中の光景を収めるための視線は、もっと低い場所、ほとんど地上と同じ位置に示されていることだ。

 それこそ、小説として書かれた『西荻タワー』(04年)や小説とマンガのミクスチャーであった『見張り塔からずっと』(09年)などの近作にあってさえ、我々が生きているこの現実は、死者や彼岸、そして頭上から見下ろされるのがちょうどよい、そうしなければたまらない、とでも言いたげな認識を求めることができた。『アヒルの子のブルース』の言葉を借りるのであれば、〈ひしめきあう狭い世界 あさましくえげつない人々の群れ〉に〈君はもううんざりじゃないかね?〉なのである。

 もちろんそれは、『噛みながら』でも、頼子の不機嫌そうな表情に反復されているのだったが、ここで注意されたいのは、地上に足のついた構図、此岸へのカムバックを謳う物語を通じ、その不機嫌そうな表情が晴らされていることにほかならない。『アヒルの子のブルース』のラストのカット、あそこで空のまぶしさにかざされ、影をつくっていた手の平が、『噛みながら』におけるラストのカットにはない。

 かくして余談めいていくのだけれども、『魔法の国のルル』の前編(02年)がかえりみられるだろう。地上を遠巻きにすることで得られたパノラマ、それが暫定的な幸福を教えてくれる場面で物語は中断しているのだが、たぶん、きっと、あの少年は、『噛みながら』の頼子がそうであったように、ふたたび我々が生きているこの現実へと戻ってくる。帰ってくる。はたしてそのとき、彼はどれだけの希望を此岸のなかに見つけられるか。後編の発表が待たれる理由はそれである。

・その他よしもとよしともに関する文章
 『見張り塔からずっと』について→こちら
 『ブロンちゃんの人生相談室』について→こちら
 『4分33秒』について→こちら(01年に「NEWSWAVE ON LINE」内のコンテンツに書いたもの)
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Excerpt: 週末のtouch!papa (我が家には まだDVDレコーダは有りません!ましてやブルーレイなんて…) 坂口憲二…カッコいいわ〜 夏木マリも… なんて 話題じゃなくて週末のtouch!p..
Weblog: 『医龍 Team Medical Dragon3』 坂口憲二 最新情報
Tracked: 2010-10-21 23:56