ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年04月12日
 なぜ悪人を殺してはいけないのか―反時代的考察

 『なぜ悪人を殺してはいけないのか』は、小谷野敦があちこちに発表した論考(またはエッセイ)を加筆し、一冊にまとめたものであり、表題になっている「なぜ悪人を殺してはいけないのか――復讐論」は、そのうちの一編にすぎず、全体を貫く主題はむしろ、副題である「反時代的考察」のほうにかかっており、大まかにいえば、近代あるいは戦後以降から現在に至って、日本人みずからの手によって歪められた日本人像そしてアイデンティティを撃つ、そういった内容になっていると思う。個人的にもっともおもしろく読めたのは、小谷野によれば〈こうしたものが「武士道」の精神を代表するものとして諸外国に紹介されるのは、ただ日本文化に対する誤解を増幅させるものである〉とされる『葉隠』が、過大に評価されるきっかけとなった(後年の)三島由紀夫批判から、エロスとアガペーの恋愛観念に踏み込み、若い女性のあいだで男の同性愛ものが美化される傾向の、その根底にあるのは女性の女性性からの逃避であると推測する「忌まわしい古典『葉隠』」であった。それというのはもちろん僕が、小谷野の書いたもののなかではとりわけ恋愛論を好む、というタイプの読み手だからに違いない。以前にもいった気がするけれども、僕個人は、筋金入りの恋愛至上主義者なので、けっして小谷野の意見を全面的に肯定しないが、しかし、当人の思惑はどうであれ、ある種の固定観念を攪乱させる、そのような役割を持ったものとして、小谷野の在り方については、基本的に支持の立場である。そういった小谷野の資質が、とくによく出ているのは、「夏目漱石の保身――『こころ』の「殉死」をめぐって」と「「オリエンタリズム」概念の功過――『トゥーランドット』と『逝きし世の面影』であろう。前者は、やはり本書に収められた「戦後転向論」へと、規模を変え、発展していったように思われる。さて。小谷野は、私怨を否定しない人であるが、その醍醐味を色濃く味わえるのが「田中克彦『チョムスキー』批判」だ。なぜここで、田中克彦を否定し、〈僅かに分かっただけ〉のチョムスキーとその系列の理論に触れるのか、といえば、その理由は、ラストに収められた、小谷野版「アメリカと私」といえなくもない「カナダ留学実記」によって明かされている。ああ、まさしく私怨以外の何ものでもないではないか。もしかしたらご存知の方も多いかもしれないけれど、これはもともと小谷野のブログ(はてなダイアリー)にアップされたもので、その、受難と孤独な日々は、一読に、いや、それ以上に値する。たしか以前に小谷野がべつの場所でもすこし触れていた、〈たしかに私は小説家になりたいと思ってはいた。だがその才能がなかった〉と述懐するくだりは、胸打つほどにエモーショナルである。

・その他小谷野敦に関する文章
 『禁煙ファシズムと戦う』について→こちら
 『帰ってきたもてない男――女性嫌悪を超えて』について→こちら
 『恋愛の昭和史』について→こちら
 『俺も女を泣かせてみたい』について→こちら
 『すばらしき愚民社会』について→こちら
 『評論家入門 清貧でもいいから物書きになりたい人』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(06年)
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