ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年04月07日
 モダンのクールダウン

 んーあーうーん、もちろんのように僕の頭が悪いからだというのもあるのだろうが、この『モダンのクールダウン』において稲葉振一郎の目指しているものがいったい何なのか、ちょっと僕には理解できなかった。とはいえ、べつに難しいことが書かれているわけではない。むしろ「モダニズムとポストモダニズムの違い」からはじまり、リオタールの「大きな物語」やアレントがいうところの「公共性」、またはベンヤミン「複製技術」、フーコー「規律訓練」などといったタームを引き寄せつつ、全体がサブ・カルチャー化した今日の世界において、〈東浩紀と大塚英志の対質〉についてまとめたものとしては、いっけん入りやすそうな内容である。が、しかし、いかんせん回りくどい、読みながら、あれ? さっき何のこと言ってたんだっけ、と思わず話をはぐらかされた気分になるのだった。じっさいに迂回云々という言い回しを随所で見かけることができる。もうすこしいえば、他人の持って回った言い方を、稲葉なりの持って回った言い方に換言することで、全体の論は進んでゆく。もちろんのように、そうした振る舞いこそが、稲葉自身がポストモダニストであることの(もしかすると当人にとっては不本意な)実証になっているのかもしれないけれど、あたかもロジックではなくてレトリックいじりに見えるような所作に、最後まで付き合うのは、けっこうしんどい。たとえば稲葉は、東浩紀がいうところの「環境管理型権力」を「テーマパーク型権力」と言い換える。当然、両者の言葉のあいだにはズレ(差異)がある。だが、そのズレにこだわることは、あまり本質的な議論じゃないのではないか。すくなくとも東が「監視」を「環境管理」という語のオルタナティヴとして使うようには、稲葉の「テーマパーク」は「環境管理」のオルタナティヴとしては機能していないふうに思える。おそらく本書でもっとも興味深いのは、「動物化」について〈東がはっきりと言わないことをあからさまにしてしまったのは、むしろ本田透(略)です〉と書かれている箇所であろう。ただし、そこでがっと神経を傾けてみれば、何をもって本田が〈東がはっきりと言わないことをあからさまにしてしまった〉のか、あからさまに示されていないことこそが、じつは本書でもっとも残念なところでもあるのであった。

 『オタクの遺伝子 長谷川裕一・SFまんがの世界』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(06年)
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