ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年04月03日
 ずっと

 この数年のあいだに登場した小説家のなかで、その重要度をいえば、個人的な五指に入る森健(もりたけし)だが、04年の『群像』7月号に発表された、あのすばらしき『種を蒔く人』が未だに単行本化されていないところをみると、どうも世間ではそれほど求められていなさそうである。おおいに残念だといわざるをえない。が、しかし。そうした状況自体が、もはや馬鹿馬鹿しいと思えるほどに、この、新作である『ずっと』は、よかった。通俗性を突き詰めてゆくことで、逆に、ある種の純朴さを結晶化させる、そういった森ならではの手腕が、生きている。これが大勢に読まれないということは、たんに、その人たちがもったいないことをしているというだけの話であろう。

 14歳で家出をした少女が、アンダーグラウンドな風情の人間たちに絡めとられ、風俗で働かされることになる、といった具合に、おおまかな話の筋だけを取り出せば、たあいもない、あんまりな内容になってしまうのだけれども、そういったプロットは、当然のように、小説を成しうるディテールのひとつに過ぎず、構築された物語や、そのなかを生きる登場人物たちの動きを眺めているうちに、翻って、そのようなプロットの退屈さこそが、また、この小説、その全体に必要とされたものであったことに、気づく。〈このわたしたちの知っている言葉の世界は、とても小さくって弱くって、同時にとてもいじっぱりな世界だ〉と少女は思う、それから〈わたしたちはこのあてのない世界のなかで、あてのない夢を見て、あてのない空を眺める〉と考えるが、しかし〈すぐに自分の理解できる理性の小さな世界に戻りたがる〉ことをわかっている。じつをいえば、そのような往復運動と確認作業それ自体を、先に挙げたプロットが兼ねているのである。

 また、内面というものは告白を経ることによって生じる、という説をとるのであれば、この小説のうちで、主人公の立場にあるナオミに、語り手であるところの作者は、ことごとく告白を禁じる。その有り様は、たとえば、金原ひとみの小説における、やはり水商売をこなす登場人物が、つねに、饒舌に、告白をし続けることで、内面を仮構し、かろうじてそのキャラクターをキープするのとは、まったくといっていいほど正反対である。しかし、それはけっして、作者の年齢差や性差の違いに基づく振る舞いではない。そうではなくて、現実に関する認識の差異により、もたらされているものだろう。おそらく森は、内面というものが、先天的に、人間のなかに備わっているとは考えていない。むしろ、それは外からやって来る、あるいは外部との接触のさいに生じるノイズみたいなものだと思っている。基本的に、人間というものは空っぽなのだという、厳しい前提条件のうえを、あたかもナオミは歩かされているかのようだ。

 他の登場人物、とくに男たちがやけにお喋りであるのに対して、ナオミが本音を口にする機会は、あまりにも少ない。というか、読み手の側からすると、彼女が何を考えているのかは見えない、いや、何も考えていないようにさえ見える。だが、そのことがナオミという少女の存在感を軽薄にしているかといえば、そんなこともなく、ラスト間近のある一点まで告白が制御されることで、彼女の抱える空虚さは、孤独や絶望といった平面的な言葉に置き換えることのできない、漠然として立体的なイメージそのものへと化してゆく。唐突に「あんたそれ、犬の笑顔やな」とナオミの同僚であるアヤが苛立って口にするとき、ナオミのなかでは〈言葉では一旦まとまった像が、否定されて壊れ、耳に残ったその音とともに取りとめもなく拡散していった〉のは、つまり、言葉が先にあることで、牽引されてきた内面などといえば、結局のところ、嘘に近しい、ということの言い換えなのではなかろうか。

 エピローグとして付せられた着地点は、いささか綺麗にまとまりすぎていて、ナイーヴな情緒に流されすぎなきらいがあるが、しかし、それでも犯された背徳のすべてが払拭されないところに、この『ずっと』という小説の、本質があるのだと思え、僕はといえば、読後に、ほんのすこしばかり具合が悪くなった。

・その他森健の作品に関する文章
 「ペイル・ブルー」について→こちら
 「楽園の夜に」について→こちら
 「女の子と病気の感染」について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(06年)
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