ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年03月31日
 『ユリイカ』05年12月号(特集「野坂昭如」)に収められた「24アワーズ・パンティ泥棒」という文章のなかで、三田格は、ネット的な身体性つまり「回路」の利便性を基本に置いたうえで、マンガ『デスノート』に触れ、〈「間接的」な暴力の主体がどれだけ特定されないのかということが、いわばエンターテインメントの中核をなしている〉といっている。『デスノート』における、「間接的」な暴力の達成度や完成度は、すなわち、他者にダメージを与える主体がエロティシズムから切り離されている、「去勢」されているという事実を隠蔽するための、じつに効果的な機能を果たしており、それが受けているというのである。一方で三田は、森恒二の『ホーリーランド』を、逆に「直接的」であろうとする方向に振り切れた作品として取り上げ、〈『デスノート』がもしも「去勢」を解除しようとすれば、『ホーリーランド』のように、自分が攻撃した相手からは必ず逆襲を受けなければならず、そのためには相手にもノートを持たせなければならなくなる(つまり、『デスノート』という作品は成立要件を失ってしまう)〉という。『デスノート』云々はともかくとして、三田の言い分の、その裏を返してみるとすれば、『ホーリーランド』というマンガの成立要件とは、つまり、「直接的」な暴力を行使しうるがゆえに〈自分が攻撃した相手からは必ず逆襲を受けなければなら〉ないということになる。これはたしかにそのとおりで、暴力をふるう側とふるわれる側の平等な関係性こそが、あるいはリベンジする側とリベンジされる側の素直な応答こそが、『ホーリーランド』のうちに、ストリートという舞台を発生させ、その場における、ただ「直接的」なやり取りだけが、物語の総体をエンターテイメントとして、駆動させているのだ。とはいえ、しかし、それが凄惨な報復戦にならず、むしろ、私怨を越えたコミュニケーションとして成り立っているところに、その本質を見てとるべきであろう。この12巻においては、そういった部分が、より具体的に描き込まれている。〈この拳も想いがなければただの暴力だ・・・〉。ヨシトのキック・ボクシングに敗北を喫したユウは、シンイチのアドヴァイスにより立ち直り、再戦を決意するが、実力の開きから、勝ち目を見つけることができない。唯一対抗しうる自分の武器はなにか。かつて圧倒的な勝利を収めたボクシング部の山崎に、本格的なストレートの打ち方を師事しようとするけれども、山崎は、その敗北感から徹底してユウを遠ざけるのであった。自分以外の人間と対面することが、ときどき、それだけのことなのに恐怖に感じられるとしたら、どうしたらそれを乗り越えることができるのか。おそらくは、自分が自分で怖がることを許してやるしかないのではないか。そこからはじめるしかないのではないか。怖れることさえも怖れるあまり、背を向け、逃げ続けているかぎり、光はけっして射してこない、すくなくとも目の前を照らしてくれることなんてない、のである。

 11巻について→こちら
 10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(1) | マンガ(06年)
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