ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年03月28日
 越境陀羅尼

 青野聰は〈歌ってもまだのこるもの。それが文学の魂である。いままで書かれることがなかった日本人がここにいる〉と帯の推薦文にあてているが、そうだろうか、僕には、これ、佐藤トモヒサ『越境陀羅尼』は、単なるヤンキー・マンガの写生にしかすぎず、それが「文学の魂」であるのならば、へえ、そうなんですか、といった感じであるし、そのことを指してのみ、「描かれる」ことはあっても「書かれる」ことがなかった「日本人」なのだといえば、まあ、たしかにそのとおりなのかもしれず、ふいに斎藤環がどこかで「ヤンキー文学は可能か」と書いていたことを思い出す。ああ、そうか、日本人の本質はヤンキーに近い、と指摘したのはナンシー関であった。

〈荒野をめざす君たちに!〉今は亡き浅田基行の考えに従い、バンコックで設立された「ニルバーナ旅団」の、その理念は〈世界各地で頻発している民族紛争の中で、俺たちが共感できる正統なる各民族自決の動きを支援する、それと同時に、俺たちもまた日本人としてのあるべき生き様を確認する〉といったものである。密教とトランスパーティーの要素を用い、日本を捨てたバックパッカーたちの支持を集め、次第に勢力を拡大していった旅団は、しかし、権力の巨大化にともない、その本質を見失いつつあった。「在」と「流民系」の2派による確執が深まってゆくなか、中心人物であったシゲが謎の失踪を遂げる。「流民系」に属し、シゲの親友でもあった〈俺〉=サンタは、自分がただの代役、サンドイッチマンだと自覚しながらも、「流民系」をまとめようと奔走するが、一方で、彰が取り仕切る「在」の不穏な動きを嗅ぎつける。

 具体的に、暴力的な、アンダーグラウンドのニュアンスを含む文章は、ところどころにあるブンガクぶった言い回しに、ソリッドさとシャープさを欠くが、それでも村上龍か、あるいは花村萬月あたりを想起させる。だが、そのようにして、小説のうちに招き入れられるのは、じつにホモ・ソーシャルな物語にほかならない。もしかすると作者は、イデオロギーや宗教、そして、この国のアイデンティティなどといった問題を、高次のレベルで取り上げたい、あるいは扱ったつもりなのかもしれないけれど、たとえば「ニルバーナ旅団」を「武装戦線」や「黒焚連合」に置き換えてみると、ああ、高橋ヒロシが描くマンガと大差のない世界観が、そこには広がるばかりなのだった。そのように考えれば、青野の推薦文は、あたかも、後発ヤンキー・マンガ家の単行本の帯に、ときおり先行するヤンキー・マンガ家が寄せるそれに、似て、見えてくる。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(06年)
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバック