ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2010年06月22日
 00年代のヤンキー・マンガにおいて、ギャングのキングになるという夢想は、その切実さにもかかわらず、屈折し、やがて敗北する運命にあった。『キューピー』の我妻涼しかり、『莫逆家族』の五十嵐けんしかり、『GOLD』の御吉十雲しかり。『ギャングキング』のピンコはどうなるかまだわからないが、心はやはりよじれ、暗いものを背負わされている。それはまた、不良少年が不良少年のまま社会に出たとき、必然的に引き受けざるをえない試練だったろう。吉沢潤一の『足利アナーキー』が、はからずも2010年代をマークしつつあるこの作品が、決定的に異なっているのはそうした点である。

 たとえば、主人公のハルキが3巻のなかで〈オレはよォオー!! 日本一のギャングになるのが…夢なんだ〉と言うそれは、とても前向き、ポジティヴな触感を持っている。だからこそ、彼に恨みを抱き、相対していたはずのジェットは、呆気にとられ、以前までのわだかまりを捨てられた。しかし、ジェットが尋ねるとおり〈だいたい日本一って…オマエ…何をもって日本一なんだよ〉なのであろうか。じつは行方や根拠のほとんどはっきりしていないことが、『足利アナーキー』というマンガのストーリーと展開をエネルギッシュにしているのだけれども、その思い切りのよさはたしかに、先行する作品や作家には見られなかったものであって、おそらくは吉沢の世代や年齢(現在22歳でいいのかな)に還元可能な問題である一方、登場人物たちの置かれている状況によっている。

 ここでは後者に関して、いささか真面目な感想を述べたい。主人公であるハルキ(黒澤春樹)やカザマサ(真壁風雅)の立場は、いちおうは高校を無事に卒業する予定の学生である。すなわち、社会人や大人になる手前の段階にいる。これをモラトリアムと言い換えても差し支えないし、あるいは実直に、若さ、と見てもよい。『足利アナーキー』にとって重要なのは、その若さがまさしく肉体や精神のピークとして描かれていることなのだ。このとき、社会や道徳に付随する条件はいったん保留される。作中に、無難な高校生や堅気の人間があまり出て来ないのは、そういう条件の保留と物語の構造とがダイレクトな結びつきを得ているからにほかならない。カザマサはヤクザのスカウトを断るが、べつだん暴力の存在を否定するのではない。いやむしろ、暴力への積極性に、生の実感を見、求めようとしているのであって、生の実感が、いま、ここ、にしかないものである以上、組織的な犯罪や将来のプランは、さしあたり不要とされている。もちろんそれを一般化し、是か非かを問うことはできる。しかし『足利アナーキー』の魅力であると同時に強烈なグルーヴは、倫理上の危惧をあらかたすっ飛ばすかのようなフル・スロットル、無鉄砲なスタンスに由来しているのは間違いない。

 従来の目線でのぞむのであれば、まじにとるべきなのか、ギャグととるべきなのか、判然としないセンスに満ちているのも、そのためだ。モノローグを借り、盛り込まれた蘊蓄の類に、ロジカルな根拠がいったいどれぐらいあるだろう。あるにしてもないにしても、それはそれなのであって、ある種の雄弁さが空転せず、大げさな力説が白けそうになるところでぎりぎり、作品自体のテンションをアップさせている、このことを『足利アナーキー』の本質的な特徴とすべきである。登場人物たちのモチベーションは、冷静に判断してしまえば、たいへん馬鹿げている。だが、馬鹿馬鹿しさを真芯から引き受けて立っている様子がちょうど、いま、ここ、若さの証明になりえているので、ぎょっと目の離せなくなる。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
 1話目について→こちら

 番外編「乙女シンク」→こちら

・その他吉沢潤一に関する文章
 「ボーイミーツガール」について→こちら
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバック