ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2010年06月15日
 ギャングキング 19巻 (ヤングキングコミックス)

 柳内大樹の『ギャングキング』は、作中の人物が持ち回りで自分探し(!)に取り組んでいくマンガであって、もちろんこれは多少の揶揄を込めていっているのだったが、いやたしかに思春期も終わりに近い高校生活においては、自らのアイデンティティを疑い、危ぶみ、思い悩むのはまったく珍しいことではないに違いない。しかしそれが、必ずしも学生ならではの風景としては再現されていないので、その、わざわざご苦労さん、であるような回り道が企図しているところに、いまいち説得されないのである。青春、限られた時間のなかで足掻くことの切実さを見るよりも、所詮、高等遊民的なライフスタイルを不良少年のイメージに移し換えたにすぎない、と受け取れてしまう。これは、作者があきらかに手本に置いているハロルド作石の『ゴリラーマン』における藤本軍団の、あのきわめてすぐれたリアリズムと比較してみれば、一目瞭然だろう。ことによると、『ゴリラーマン』の現実性はすでに旧く、時代をくだった『ギャングキング』の現実性こそが新しい、このような解釈を許すべきなのかもしれないけれど、結局のところそれが、作品の魅力を十分に満たすだけの条件となっていないことが問題なのだ。

 そうした次第で、ようやくお宅に順番が回ってきましたよ、と、ついにバンコまでもが自分探し(!)のモードに入ってしまうのが、この19巻である。ワークマンズ編で謎の覚醒を得、超常的なパワーを手に入れたジミーは、街を取り仕切るギャングのボス、ピンコとの再戦を望む。一方、ジミーの謎の覚醒と超常的なパワーを見、彼が自分たち学生とは決定的に違う人間だと思い知らされた親友のバンコは、複雑な心境を一人抱えることになってしまう。以上にはちょっとばかりの脚色が加わっているけれども、概ねはいじっておらず、正直、ストーリー自体はよくわからないものになっていて、何だろう、これ、といった感じがつよい。アネが失恋するくだりなど、短いエピソードのなかにこのマンガ家の良さは出ていると思うのだが、もっと大きな部分、つまりは本筋にさほどの興味がわかないので、弱る。

 自分探し(!)の安易な導入ばかりをいっているのではない。ジミーのライヴァルであると同時に一種のダーク・ヒーローとして設定されているピンコに、文字どおり『ギャングキング』のテーマを見ようとしたとき、そこからもあまり、はっとしたものが感じられない。いささかまじめに突っ込んでいく。大規模なギャング、ジャスティスを率い、トマス・モアを引きながらユートピアを述べるピンコの造形はさしあたり、99年から00年代にかけて高橋ヒロシが『キューピー』に描いた我妻涼や同時期に山本隆一郎が『GOLD』に描いた十雲に類しているといってよい(おお、見事に『ヤングキング』だ)し、山本が現在『サムライソルジャー』に描いている桐生達也も同様の、破滅と孤独の裏返しにユートピアを指向するタイプのアウトサイダーなのだったが、しかしそれらと並べてみたとすれば、ピンコの佇まいには著しく評価できるだけのカリズマが備わっていない点を残念に思う。それは当然、ピンコに負わされているテーマがぼんやりしていることを意味しているだろう。法規上の悪たりえることで、自己をあえて反社会的な立場に措定し、テロリズムもしくは革命を目論むというのは、00年代のヤンキー・マンガに顕著なヒールの像であった。ピンコもまたその系譜を受け継いでいるのは間違いない。だが、自分探し(!)のテーマが作品全体の精度を低めてしまっているのと等しく、掘り下げ、徹底さを欠いているため、借り子のアイディア以上に成果をあげていない。

 18巻について→こちら
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 10巻について→こちら
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 8巻について→こちら
 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら

・その他柳内大樹に関する文章
 『ドリームキングR』
  4巻について→こちら 
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『スマイル』(永田晃一との合作)について→こちら
 『柳内大樹短編集 柳内大樹』について→こちら
  「バンカラボーイズ」について→こちら
  「オヤジガリガリ」について→こちら
 『ドリームキング』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
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