ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2005年01月08日
 『新潮』2月号掲載。短編。絲山秋子の小説には、特定の個人とセックス(性交)をすることを、用意周到に避ける傾向がある。この小説でも、ある男がある女に変態的なプレイを強いている場面があるにもかかわらず、しかし互いの性器と性器を擦り合わせる式のセックス(性交)は行われてはいない、勃起した男性器は女性の肛門に挿入され、射精は膣の外へと向けられる。射精のあとで男は、寄生虫と自分の違いをいうと自分は子孫を残さない、寄生虫と自分の共通点はといえば宿主を殺さないことだ、と女に告げる。またべつの場面で、男と女は、次のように話す。〈因果関係が嫌なんだよ〉〈それで愛なんかいらねーって言ったの?〉〈自分にないもんはいらねー、そんだけ〉。

 この小説では会話に「かぎカッコ」が使われていない。会話文と地の文がいっしょくたになっている。とはいえ『新潮』2月号という雑誌全体でみれば、この小説の前に掲載されている鹿島田真希『六〇〇〇度の愛』も、この小説のうしろに掲載されている長野まゆみ『昼さがり』もまた、会話文と地の文の区別のないつくりなので、そのことを特筆するよりは、そのような共通項を持つ、つまり登場人物同士の境界の曖昧さをムードにした異なる小説が、はからずも(もしかしたら編集者の意図によってかもしれないけれど)並んでいることのほうこそが特筆されるべきだろう。そういう時代なのだ。ひとりぼっちでは生きていけないけれども、はたして誰とどのようにして関係をつくればいいのかがわからない。性交(セックス)によってキープされる恋愛は、そのための保証とはならない。そうした不安のなかで自分の存在感も薄れてゆく。

 それにしても絲山は相変わらずポップ・ミュージックの扱い方が上手い。パリで聴かれるスチャダラパーのラップは、たぶん、意味のない言葉ばかりだとしても共通言語の気楽さでもって、ずうっと自分のほうに語りかけてきてくれる(歩み寄ってきてくれる)、やさしい他者の声なのだ。


 『袋小路の男』についての文章→こちら
 『海の仙人』についての文章→こちら
 「アーリオ オーリオ」についての文章→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書。
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