ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2010年05月29日
 覇―LORD― 19 雑草 (ビッグコミックス)

 つねづね述べてきたとおり、武論尊(作)と池上遼一(画)のコンビ版「三国志演義」にあたる『覇 -LORD-』では、古代日本から渡ってきた二人の倭人、劉備(燎宇)と常元とが、英雄(聖)と下衆(邪)の対比において、両の極を為しているように見立てられるのだけれども、ここ最近、劉備にとってほんらいのライヴァルである曹操よりも常元のほうが存在感を大きくしているのは、一時的にであれ、私的なロマンをどう描くかに物語の方向性がシフトしているためだろう。たとえばこの19巻などは、大局を見据え、国単位の改革を野望する劉備や曹操よりもむしろ、私情や私怨をモチベーションに、死屍累々を駆け抜ける常元や紅蓮、呂布の姿に、スポットがあてられている。常元の暗躍を指して、〈…“国”や“種”ではない………どの“地”にも“雑草”は生える……手を怠れば 雑草は作物を駆逐する……雑草(やつら)には“自制”も“律”も無い!………葉茎を刎ねられても“根”を伸ばす!〉という劉備の言葉には、それが秩序の壊れた乱世で発せられているかぎり、たしかにある種の道理を見出せるのだったが、しかし一般化してみたとき、やや厳しく、冷たいものを感じる。この厳しさや冷たさによって屈折した立場を負わされているのが、もしかしたら常元や紅蓮なのではないか、と思える。それはつまり、同情の余地だといってよい。たしかに常元も紅蓮も、倫理の観点からすれば、許されない点が多い。とくに常元のクソ野郎っぷりときたら。しかし理由や原因がまったくないわけではないことの奥に、作品世界の背景があらわれている。反面、かつては〈己の“欲”のままに戦い、飲み食らい犯し――力尽きれば、その場で野垂れ死にすればよいと思っていた……〉はずの呂布にもたらされた〈だが、戻る場所を………この呂布(オレ)が、帰る場所を望んでいる……〉という迷いが教えているのは、すべてがあまりにも私的であるがゆえの孤独だといえる。寄る辺を持たない人間は、たとえそのことに耐えられるだけの強さに抱かれていたとしても、ひっきょう孤独である点に変わりはない。どのような超人であれ、そうした孤独からは決して逃れられないので、彼は父として他人と繋がりうる可能性を、じつの息子である関平との関係のなかに見出すのである。ところで、いくつかの言動は、呂布と常元がいわば、あの偉大なる悪漢、董卓の(孤独に生き、孤独に死んだ姿の)ヴァリエーションにほかならないことを、示唆している。じじつ、彼らは生前の董卓に庇護されていたのだから不自然さはあるまい。

 17巻について→こちら
 16巻について→こちら
 15巻について→こちら
 14巻について→こちら
 13巻について→こちら
 12巻について→こちら
 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
 5巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他武論尊に関する文章
 『DOG LAW』(画・上條淳士)について→こちら
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