ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年03月20日
 終わりとはじまり

 世に詩が満ちることは、けっしてすばらしいことではない。だって、今こそが、そういう時代だろう。まあ、そのうちの大半が詩ですらないといえば、そのとおりで、しかし、では、詩はどこにあるのだろう。『文學界』4月号の、吉本隆明『詩学叙説』の書評で、伊藤氏貴が次のようにいっている。〈一体、日本の「詩人口」は現在のところ何人くらいなのだろう〉〈もちろん、これだけでは「詩人」の人数なのか「詩愛好家」の人数なのかわからない〉〈しかし、「詩人」をプロフェッショナルに限定しないなら、両者の数はそれほど大きく異ならないだろう〉。とはいえ、本職の詩人が書いたものと素人ポエマーの書いたものとでは、その、ひとつひとつの言葉に対する気配りの有り様において、差異は歴然としている、と僕は思うのだが、人によっては、後者のほうをより好む、より大きな価値を置く場合などあり、そんなことを考え出せば、やはり、詩はどこにあるのだろうか、と首を傾げたくもなる。

 小林エリカ『終わりとはじまり』は、それ相応に有名な詩人の作品から受けたインスピレーションを、マンガへと発展させたものである。『終わりとはじまり』という題名からわかるように、ヴィスワヴァ・シンボルスカの詩が用いられているのはもちろん、それ以外には、ヤニス・リッツォス、宮沢賢治、ロベール・デスノスといった人たちの作品が取り上げられている。マフムード・アル・ブライカーンに関しては、寡聞にしてここではじめて知ったのだが、基本的に、抽象的かつ幻想的な作風のものが選ばれているようだ。僕は、小林エリカについては、文筆(小説など)の活動のファンであるけれども、それ以外の、つまりイラストやマンガにおいては、まあ根底のセンスは同じなのだろうが、あまり高い関心はなくて、だから、正直なところをいえばこれも、どうだろう、といった疑問形でしか触れられない。絵柄は好みの問題だとしても、本来、詩の言葉のうちにある拡がりが、青春という限定された情緒に回収されてしまっているのは、やはりうまくないのではないかな、と思う。

 たとえば僕の考えを述べれば、ここで詩情として扱われているような、少年性のロマンチシズムは、青春の外部に立ったとき、つまりモラトリアムの外へと至ったときに、はじめてその真価が試されるのであり、けっして有り体の姿で青春の像を仮構したり捏造するためにのみ、尊ばれるべきではないのである。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(1) | マンガ(06年)
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