ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2010年05月21日
 花宵道中 2 (フラワーコミックスアルファスペシャル)

 おおむね、歴史上の遊郭を題材にしたフィクションが描き出しているのは、決して覆せない運命を生きること、なのではないかと思うのだったが、この宮木あや子の同名小説を斉木久美子がコミカライズした『花宵道中』も例に漏れない。とどのつまり、絶対的な制度を否応なしに受け入れなければならない女性の姿を主体化し、幸と不幸にわかれてしまう実感を、しかし後者のなかに見られるほころびでしか前者はありえない、と、いやだからこそ小さいはずのものにすべての希望を任せるよりほかないのだ、と、こういう認識の上に置きつつ、表現の対象にしているのである。オムニバスに近しいストーリーはその2巻で、二人の女郎の、どれだけ華やかに映ろうとも恵まれているとは言い難い経歴を遡っていく。まだ客をとれないほどに幼い茜は、茶屋で見かけた若い船頭に想いを寄せるのだったが、はたしてそれは自分の価値が何によって定められているのかを思い知らされる恋となる。他方、茜と同じ吉原の山田屋の霧里は、かつて島原にいた頃、あまりの人気を疎まれ、同業からの評判を悪くしてしまうのだけれど、唯一の肉親である弟の存在をよすがにすることで、毅然とした態度を守り続けるのであった。前巻の朝霧もそうだし、霧里にしても茜にしても、立場や境遇が違う。生まれも資質も違う。適正も年齢も違う。だが、女郎であるという点で一致している。女郎である以前に、ただの女であるという点で一致している。女である以前に、ただの人間であるという点で一致している。そして、ただの人間がどう足掻いても逆転することのない運命を引き受けなければならない、という点で一致している。これの悲哀にも見えることが作品の本質、ドラマトゥルギーの形成にかかってくるエモーションであり、現代的な共感の幅だといえる。もちろん、そうした根幹は原作の段階によっている部分に違いないものの、斉木は構図やタッチに工夫を凝らしながら、いくつものシーンに印象を織り上げている。

 1巻について→こちら
 
・その他斉木久美子に関する文章
 『ワールズ・エンド』について→こちら
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