ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2010年05月12日
 風が如く 8 (少年チャンピオン・コミックス)

 全編の展開は必ずしもエキサイティングだったとは言い難いものの、最後の段に来、さすがのポテンシャルで爽快なぐらいの感動を寄越していると思う。米原秀幸の『風が如く』がこの8巻で一応の大団円を迎えた。かっこういい生き方に憧れる現代の少年、時越速太が、戦国時代にタイムスリップ、そこで天下の大泥棒、石川五右衛門と行動をともにするうち、成長を果たしていく、というふうにストーリーは要約可能ではあるけれども、荒唐無稽な冒険活劇のなかに歴史上の人物の魅力をどう描くか、次々に用意されたアイディアが物語のスケールを大きくしすぎ、作品の焦点が定まらず、もしかすればとっ散らかった印象を持たされてしまったのが惜しい。もちろん本来の主人公は石川五右衛門である。したがってワープくん(速太のことね)は狂言回しにすぎない。だがそうだとしても、SF調の設定によって高められた架空性が全体の整合度をうまくフォローしきれていないところがあったのはたしかで、ゴエモンを中心の点とするあれこれが十分なアンサンブルを奏でられていなかったのも悔しい。だがしかし、ラストが抜群に決まっているのは最初に述べたとおり、読後の感想を決して悪くはないものにしている。ちょうど円環を閉じるていでまとめられた結末は、本作がボーイ・ミーツ・ボーイの類例、とりわけグッド・ボーイとバッド・ボーイのそれであったことを示してくれる。今やサブ・カルチャーが強力な影響源となる時代である。そのとき、フィクションは生き様を教えられるか、フィクションから生き様を学べるのかは、重要なテーマとなりうるだろう。当然、これはマンガ表現において、すけべな描写にかける熱量を技術と呼び、洗練をさも高尚であるかのように評価するのとはべつのレベルの、であるにもかかわらず同根の問題を孕んでおり、つまりはスペクタクルにすぎないものを信条化することの可否を意識されたい。それこそ『風が如く』のワープくんは、範馬刃牙や月島花といったサブ・カルチャーのヒーローを見、ああなりたいと願う人間であった。はたして彼の根性は、フィクションのごとき体験を経ることで試され、鍛えられた、とすべきか。いやむしろそうした面は、過去回想編を含め、ゴエモンの姿にこそ託されている。そして、結果的に、ではあるが、ゴエモンに与えられたスペクタクルは、中途で幕を下ろされている。絶体絶命に陥ったはずの彼がいかにして危機を乗り越えたのか描かれていない。クライマックスへ至り、かわりに浮上しているのは、ワープくんの主観であって、これまでに得てきた出会い、あるいは仲間がいることの尊さにほかならない。設定に負うしスペクタクルはよそに、本作を通じて何か教えられるものがあるとすれば、結局のところ、そこに集約される。欠損を抱えた人びとが欠損を抱えているがゆえに一つの和となっていく場所に辿り着いているのだ。それにしても現代に戻ってきたワープくんの向かう先が、まさか『ウダウダやってるヒマはねェ!』と同じ桜城高校とはね。ああ、学園を舞台にゴエモンとバディを組む彼の姿も見てみたかったな。

・その他米原秀幸に関する文章
 『南風!BunBun』1話について→こちら
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