ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年03月17日
 『資本論』も読む

 宮沢章夫の『『資本論』も読む』は、マルクスの『資本論』について書かれた本ではなくて、宮沢章夫がマルクスの『資本論』を読むことについて書かれた本である。つまり力点は、「マルクス」や『資本論』にかかっているのではない、「宮沢章夫」と「読む」ことにかかっている。文中の言葉を用いるのであれば、〈わかりやすく解説し、単純化することは私の仕事ではありません〉〈むしろ、わからない、全然わからない、わからないわからないと格闘している、ある作家のその姿を見ていただくことに連載の意味があります〉というわけだ。ここで「連載」といわれているのは、これのおおもとの文章は、雑誌に掲載されたものだからである。宮沢は、はっきりといって、意欲的かつ能動的に『資本論』を読まず、むしろ締め切りに追われ、ギリギリまで追いつめられることで必死になり、ようやく『資本論』を読む。その奮闘ぶりは、じっさいの注釈のほかに、注釈状に付せられたウェブ日記の転載でもあきらかであるのだが、そのような構成はもしかすると〈だが、注釈こそ (略) それこそがマルクスの息づかいではないか〉〈ときとしてそれは「余談」だとも読め、学校の授業中、本論とは関係ないところで教師が語り出した余談の面白さを思い出す〉とあるように、『資本論』に触れたことからやってきているインスピレーションに、基づいているのかもしれない。全体の書かれ方は、高橋源一郎方式(というか小島信夫方式)というか、あるワンセンテンスに引っかかったら、それを軸に、つれづれなるままに迂回を繰り返す、そのような仕草で、まあたしかに『資本論』を理解するにあたっては、まったく役に立たないのだけれども、その引っかり方、要するに、ひとつの文章のうちにあるアフォリズム的なものに対して、つべこべ言うのは、いつもどおり、宮沢のエッセイの書き方と違った点は、あまり、ない。言い換えれば、エッセイストとしての宮沢の本領が発揮されている。じつのところ、僕がいちばんおもしろく感じられたのは、『資本論』を読まない(読めない)回の、言い訳じみた部分なのだった。〈とうとう今月、『資本論』を読めなかった。読めなかった。まったくだめだ。だめな人間だ。生きていてすみません〉などといわれれば、いやいや、お気になさらず、こちらこそなんかアレで申し訳ないです、と逆に謝りたくもなる。いや、ならないか。結局、本書においては『資本論』全部は読み切らずに、幕引きとなってしまっているが、しかし、この奮闘ぶりには、やはり『資本論』を読んでいる途中で投げ出してしまった人間の多くが、もちろんそのなかには僕も含まれるのだけれども、とにかくいつの日か『資本論』それ自体を一度でもいいから読み通したいと思っている向きには、励まされるところがあったりなかったりするはずだ。

 小説『不在』についての文章→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(06年)
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