ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2005年01月05日
 意図的にこの国のテレビ・ドラマを奇形化させたような『東京湾景』が、じっさいにテレビ・ドラマの原作に選ばれるような時代において、吉田修一の描く恋愛とはどのような意味を持つのか。この本の帯には〈間違ってもいいから、この恋を選ぶ。そう思ったことはありませんか?〉とある。話は変わるのだが、石川忠司は吉本隆明についての文章『“大衆”の位相について』のなかで、スーパーカーの楽曲「Easy Way Out」中の〈実際、「正しい」を前に間違いをわかって選ぶのさ〉という歌詞を引き、吉本の「語相論」(『ハイ・イメージ論』)を読み解こうとする。

 吉本自身は、例えば「日本における革命の可能性」なんかでは「政府に対して国民がより自由になり、政府をコントロールできるようになる」とか思っていたにもかかわらず、「語相論」の“大衆”、強いては吉本隆明本来の“大衆”概念とは、むしろまったく反対に、まさに「大衆が力をつけてきた」とか「大衆や民衆の立場からこそ出発せねばならない」とかの言辞やイデオロギー、さらにはそうした言葉に支えられたすべての現実的行動を死滅させる威張った「位相」にほかならない。といっても、大衆的なスタンスを保持しよう式の主題に別の「正しい」主張を対峙させ、そうやって前者を否定するのでは決してなく、スーパーカーの「Easy Way Out」の歌詞を借りるなら、「「正しい」を前に間違いをわかって選ぶ」ことによって、いわゆる大衆賛美や民主主義やその他何やらの、公然かつ堂々と表明されてしまうあらゆる「正しさ」とか「正義」を死滅へと導くわけである。

 石川忠司『“大衆”の位相について』


 正直、トートロジカルっぽいところもあり、なかなか理解しづらい文章ではあるけれども、たぶん石川が言いたかったのは、その何センテンスものあとで出てくる〈たとえ「正しさ」につながらなかったとしても、命懸けの狂った行為は常に素晴らしい〉というものなのだろう。そのこと自体の是非はともかく、この小説のなかで主人公の女性もまた同様に「「正しい」を前に間違いをわかって選ぶ」ことになる。読めばわかるように、この物語のどこにも相思相愛は存在していない。片想いの熱はあるのかもしれないが、それも他者との交流へ結びつくよりは、ただのマスターベーションとして完結している。それでも、これが恋愛小説として成り立つのであれば、それは、ラストで主人公の女性が自分の置かれた窮屈さから逃れるきっかけとして起こす行動が、いま現在を生きる多くの人には恋愛のように見えるからなんだろう。あるいは、もはや虚無感や閉塞感から脱するためのツールとしてしか恋愛感情というものは必要とされていない、と、そういうことなのかもしれない。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書。
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