ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年03月14日
 松本清張の現実(リアル)と虚構(フィクション)―あなたは清張の意図にどこまで気づいているか

 最初にいっておくと、僕はそれほど松本清張のものを熱心に読んだことがない。とはいえ、しかし、この『松本清張の現実と虚構』において、仲正昌樹の行っている読解は、けっして入りづらいものではなかった。清張の作品をベースにした、それほど入り組んでいない、推理小説入門みたいな側面を兼ね揃えているためだろう。ストーリーとトリックはあらかた語られてしまうが、結果、そのことにより、テクストの拡がりを知らしめるかたちになっている。もうすこしいうと、ここで述べられていることの中心は、ストーリーやトリックにおける「演出」ではなくて、清張という作家が、推理小説にとどまらず、その歴史研究のうちにリアリティを発生させる、そのための方法論とはいかなるものなのか、といったことなのである。

 どうやら仲正は、基本的に、清張を、とりわけ「間テクスト性」に敏感であった作家、あるいは読み手を敏感にさせる作家として、考えているみたいだ。「間テクスト性」とはなにか、〈我々は、個々の文学作品を読む際に、その作品を、それだけで自己完結的な独自の世界を形づくっているものと見なしているわけではない。意識するとしないとに関わらず、何らかの形で、既に文学的な「トポス」になっている他の作品との関係性において読んでいる(P135)〉〈文学作品に限らず、あらゆる言語表現のテクストは、何らかの形で、他のテクストとの相互参照関係にあるということができる(P192)〉、そのような作品の在り方(読まれ方)を指して、フランスの現代思想家クリステヴァは「間テクスト性(intertexualite)」と呼んだ、と仲正は説明している。まあ〈テレビでミステリー番組を見る時、身元不明の死体が「駅」、もしくは「駅」の近くで見つかる設定になっていれば、ほぼ自動的に、ストーリーが何らかの形で「旅」と共に、「地方=過去」に向かって展開するのではないかと連想するのは〉云々といった箇所は、いささか牽強付会に思えなくもない、が、しかし、そういった「間テクスト性」の顕著であることが、読み手に、清張の作品から、時代背景や歴史、社会的な要素などなどを見いださせる、というわけだ。

 では、そうした「間テクスト性」を用い、書かれていることのなかに主題として盛り込まれているものとは、といえば、形而上的な〈思想〉とは異なる、もっとずっと地に足をついた、どちらかといえば形而下的な〈実生活〉だというのが、仲正の読みである。そうしたことについて興味深いのは、清張のほうが歳上なので同世代とはいえないけれども、あくまでも同時代を生きた三島由紀夫との対比において、〈[文学→生活]という方向で自己を形成した三島とは正反対に、清張は[生活→文学]という立場に徹した〉のは、いわゆる純文学とは違った〈“もう一つの文学”可能性を模索した〉という見方であり、それは、三島と同じく〈実生活〉を欠いた、先行する作家であり自殺した芥川龍之介、彼の脆さはそのまま、近代に無理繰り産出された「個=主体」イコール「私」の弱さだったのであり、そのような脆弱さは、最終的に、社会の圧力の前に敗北してしまう、なので清張は、個人に限定された不安ではなくて、「国家」全体を捉まえる不安にこそ注視した、といったところへ繋がっている点であろう。

・その他仲正昌樹の著作に関する文章
 『デリダの遺言 「生き生き」とした思想を語る死者へ』について→こちら
 『なぜ「話」は通じないのか―コミュニケーションの不自由論』について→こちら
 『ポスト・モダンの左旋回』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(06年)
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