ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年03月12日
 失恋論

 これ、切通理作が3年前にフラれたイラストレーターって小林エリカのことかしら、ちがうか、計算は合ってるんだけれども、まあ、そういったことはどうでもよろしい。ただし、それと同じぐらい、この『失恋論』に書かれていること、その中身もどうでもよろしい、といった感じである。たしかに以前から自意識のつよく反映した文章を書く人ではあったけれども、それにしてもいったい切通はどこへ向かっているのだろう。結局のところ、ここには彼自身の、実話に基づいた、失恋して悲しい、という記憶が書かれているにすぎない。田山花袋の『布団』によって確立されたといわれる、近代私小説ふうの女々しい告白は、なんとなく今さらであるし、論(ロジック)というには、いささか私情に寄りすぎていて、ちっとも説得されないのであった。大旨は竹田青嗣『恋愛論』をモチーフの在りかとしているのだけれども、それだって切通の心情を慰めるためだけに、都合のよい読解がなされるのみである。だいいち、切通は今様の恋愛(純愛)小説、たとえば『世界の中心で、愛をさけぶ』などのことを〈どこに「さけび」が書いてあるのかわからなかった〉と、あまりよく書いていないのだが、しかし、ここで切通の行っていることも、先ほどもいったが、近代的な私小説のヴァリエーションとしてある「僕小説」にとてもよく似たものであり、他者の認識という一点において、けっして非難できる立場ではないよ、と思う。また「失恋図書館」というブック・ガイドのなかで、村上春樹の『国境の南、太陽の西』が取り上げられている。青春の季節の終わった〈僕〉が、かつての恋を甦らせ、そして家庭あるいは日常を捨てようとするが、しかしふたたび家庭あるいは日常へと引き戻される、簡単にいってしまえば、そういう物語であろう。切通は、40歳間近になって、妻以外の女性に惹かれ、そして家庭を捨てようと思ったという。あきらかに、そうした部分での感情移入を用い『国境の南、太陽の西』を読み解くことは、手前勝手なエクスキューズ以上のものを導かない。また小谷野敦の著作なども、わりと多く援用されているのだけれども、小谷野が、片思いもまた恋愛としてカウントされるべきだといっているのは、そこにある苦しみによって「この私」に固有性が発生するからなのであり、相思相愛のみが恋愛としてカウントされるのであれば、それに向いていない人間もいる、だから、そういう人は恋愛などしなくてもいい、といっているのではなかったか。切通は〈「もてない男」を名乗る小谷野敦は『反=文藝評論』という本の中で、竹田青嗣の恋愛論は相思相愛を前提にしており、モテ男の恋愛論に過ぎないと批判している〉と書いているが、〈モテ男の恋愛論に過ぎない〉というのは、けっして小谷野にとっては批判の本質ではない。ところで、はたして失恋は他者と共有できるものであろうか。たぶん、できない。繰り返すけれども、だからこそ、その痛みが「この私」に固有性をもたらすのである。切通は「まえがき」のなかで次のようにいっている。〈おそらく、人間は楽しいときより、不幸な時の方が、お互い無防備に、裸の自分をさらしあうことが出来ると、子供ながらに予感していたのではないか〉〈大人になって、私は、あの子どもの時の予感が、正しいものであると知った〉〈大学で講師をしていて、若い学生と話すとき、一番お互いの鎧を脱いで対話することが出来るのは恋の話題であり、とりわけ失恋話である〉。はっ、そこにあるすばらしき連帯と共感! なるほど、そういう考えを信じていれば、そりゃあ、無条件で「この私」という固有性が自分には備わっているものとして、無防備に自分語りなどをはじめてしまいたくもなるか。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(06年)
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