ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2010年04月12日
 ナンバデッドエンド 7 (少年チャンピオン・コミックス)

 そう、ついに秘密を知られた剛が猛に連れ去られるのを心配し、〈どーする伍代〉と言う大丸に、伍代は〈マジでもう何もできねぇ…こっからは難破家(アイツんち)の問題だ〉と答えるしかないのだった。小沢としおの『ナンバデッドエンド』の、その物語は、とうとう、直接の問題を抱えた家族以外には誰も解決できない領域へ入る。当然、今まで以上にシビアであり、せつない問題を取り扱わざるをえないのだけれども、さすがこの7巻には、見るべき点が多い。したがって全部は触れられまい。いくら語っても言葉足らずになるのがオチであって、それはつまり、作品自体、たいへんすぐれていることが、ある種の佳境を得て、顕著さを増しているからなのだと思う。

 親の期待どおり育った兄、親の期待に添えなかった弟、こうしたコンビネーションはふつう、前者が世間一般から見ても優等生であるのに対し、後者は世間一般から見たら劣等生である、というふうに解釈される。しかし周知のように、『ナンバデッドエンド』というマンガにおいては、それが逆になっている。ほらまあ、猛なんてさ、どれだけコワモテであっても実家住まいの無職、しまいにはニートと呼ばれてしまう立場なわけだし、このへんの転倒した価値観は、もちろん秀逸なギャグにもなりえたのだが、シリアスな面でもまた、作品の彫りを深くしていることが、ここにきて、はっきりし出している。

 猛に問い質されたのち、両親と向き合い、真実を打ち明けなければならない剛の姿が悲痛である。〈ケンカばっかでヤになった…オレ 普通の高校生やりてぇって思って…普通にオレ…勉強とか部活とか〉ああ、こんなにも普通の、ごく当たり前の願いが、どうして、あれだけ団欒であった家族のシーンを引き裂かねばならないのか。思春期の子供を持った家庭にあって、親子間の葛藤は、決して珍しいものではないだろう。普遍的ですらある。一方、今どきのフィクションでそれをやるにはよっぽどの度胸が要る。テーマとしては古びたところがあるため、一つ間違えば、高級でありたい(だけの)読み手から、陳腐だと見なされてしまう可能性が高いためだ。この難しさを、変化球でありながら、ばっちりストライクに入るコースどりで描いているのが、7巻の前半、あの難破家にディスコミュニケーションが訪れてしまうくだり、といえる。

 自分たちに隠れて白百合高校へと通っていた剛を、責め、怒る両親のロジックは一貫している。父親の勝が〈オレが聞いてんのは なんでオレらに嘘ついたかってことだ!〉と口にするとおりなのであり、母親のナオミが〈お前は家族(みんな)をダマしてた 2年半も!!〉と述べているとおりなのであって、すなわち〈オメーは家族みんなを裏切った!〉ためなのだし、〈オメーは2年半オレらにチョーシ合わせて嘘ついてただけだ…〉からなのである。だが、剛の側に立ってみるなら、むしろ家族を裏切りたくなかったので、仕方なく嘘をつかなければならなかった。親と子の、心情のすれ違いが結果的に互いを傷つけ合う、こうした構図は必ずしも特殊ではなく、一般化されてしまっても構わないものだろう。しかしそのねじれが、難破家に固有のものであるとすれば、作品の構造によっているところが大きい。

 剛の告白によく耳を傾かれたい。〈教えてくれ オレ…行きたい学校に行っただけじゃねーか…オレのやったことって そんなに悪いことかな…〉と思うのは〈10代がケンカばっかで終わると思うと なんか…怖くなって…だってよ 学生ん時って…他にも色々できることとか…オレだってやりたいことも色々…〉あると気づいたからなのだったが、しかし自分に期待してくる両親の気持ちを考えれば考えるほど、正直にはなれなくなり、この苦しみが彼に〈オレだって好きで嘘ついてたワケじゃねーよ!! 千葉制覇とか関東制覇とかしたから何だっつーんだよ!! 全国制覇とかくだらねぇこと言ってんじゃねーよ!こんな家に生んでもらって迷惑なんだよ!!〉という、心とは裏腹な発言をさせてしまう。これは、主人公の剛が、筋金入りのヤンキー一家に生まれた次男であるにもかかわらず人並みの学園生活を夢見る、このような前提があってこそのものにほかならない。

 たしかにこの場合、剛の漏らした〈こんな家に生んでもらって迷惑なんだよ!!〉との文句は、売り言葉に買い言葉、的に出てしまったニュアンスがつよいものの、思春期の多くにとってそのような思いなしは、ファミリー・ロマンスの概念が教えるとおり、資質上、異常であることを意味しない。いやむしろ、正常であることの保証さえするだろう。このとき、今までそうした叫びを剛があげたことがなかったのは、そこに属している彼自身をも含めて難破家の環境が異常だったからだといえるし、他に理想を見る必要がないほどに難破家の環境が幸福に感じられたからだともいえる。いずれにせよ、もっとも注意されたいのは、先に引いた告白のなかで〈10代がケンカばっかで終わると思うと なんか…怖くなって…だってよ 学生ん時って…他にも色々できることとか…オレだってやりたいことも色々…〉と言われている点、要するに、両親の庇護から自立しつつある主体がモラトリアムの段階において自らの将来を模索しようとする、その、しごくナチュラルでもありえる成長の像が、ほとんどまっすぐな愛情で築き上げられている難破家の平和を切り裂いている、ということである。

 変化球でありながら、ばっちりストライクに入るコースどりで、親子間の葛藤を描いているというのはつまりそのような意味において、であって、いうまでもなくそれが『ナンバデッドエンド』に、ヤンキー・マンガのジャンルに止まらないだけの器量を与えているのだけれども、一方でユーモラスな設定のなかに家族の難題を描き出したエピソードは、今日でいうところのヤンパパであったりヤンママであるような層が、思春期に入って自意識に目覚めた子供との確執を通じながら、この社会でいかに保護者としての役割を再確認するか、多少真面目ぶって述べるとすれば、現代的な環境の変化が汲まれているようにも受け取れる。

 言い換えるなら、現在の若い世代が若い感覚を第一義に置いたまま父母のつとめを果たそうとする、その姿が成熟の新たな方向性になりうるかもしれないと仮定されるとき、主人公の発育と周囲の反応がそれを試しているのであって、予想外の事態に当面したナオミから呼び出され、剛の高校進学を世話した中学校教師、長谷川が再登場するのは存外見逃せない。前身にあたる『ナンバMG5』の、剛の妹である吟子が進路に悩むエピソードで活躍した長谷川は、そこにも描かれていたが、難破家の教育方針が是とは限らない推測となってあらわれており、両者の衝突は、そしてここでもまた反復される。

 長谷川とナオミの対談によって表象されている意見の異なりは、ずばりどちらが正論であるかを確定するのは難しい。教師と母親では、立場の違いがある以上、それは仕方がないことではあるものの、あくまでも一般論をとるなら、長谷川のほうに分があるように思われる。しかし彼自身が剛の進学に関し〈私は教師の権限をはるかに逸脱した行為をした…〉と謝りを入れているとおり、ナオミの怒りにまったくの正当性がないわけではない。同時に、剛の選択が、たとえ親子関係上の良識を欠いていたとしても、決して批判にのみ終わるべきではないことを、長谷川は〈難破さん…私が言うのも何ですが…剛のついた嘘に悪意はありません…家族が好きだからそうせざるを得なかったんです そこは…わかってあげていただけませんか…〉と代弁しているのであって、その〈アイツは何も悪いことしていません! アイツは自分を生きてるだけですから!〉という事実が、あらためてナオミの心情に息子の成長と自立を問うことになっている。このへん、タバコなどの小道具がナオミの苦悩をヤンママ(文字どおりヤンキーでヤングなママさんの意)のリアリズムへ寄せるのに役立っている。

 さりとて、『ナンバデッドエンド』の本筋であり本領は、ヤンキー一家の次男であることを課題として持たされた剛のハイスクール・ライフ、限られているがゆえに貴重な高校生活を、高いエンターテイメント性を介し、ファニーでありつつエモーショナルに切り出していることであった。これまでのストーリーにおいて、主人公が、生まれや育ちのせいで性格が歪んでしまった人物たちと渡り合い、勝利もしくは和解してきたのは、彼自身が生まれや育ちによって肯定されている、さらには彼自身が生まれや育ちを肯定していることの保証となっていたためにほかならない、こう作品のロジックを解釈できる。それが今回は剛を傷つける原因に裏返ってしまっているのだから、こたえるに決まっている。家を飛び出し、へこんだ彼を励まそうとする伍代と大丸の友情はやさしい。とくに伍代、いいやつだな、おまえ。かつて伍代が母親との確執を剛に救われていたことを思い返せば、なお感慨深い。〈これからお前がどーなりたいかだけハッキリすりゃ 今すべきこともハッキリすると思うんだけど…〉と、剛にかける言葉、表情に、照れ、は見えないだろう。

 しかるに、剛をふたたび奮起させる直接のきっかけとなっているのは、これが意外と重要なのだけれども、藤田さんとのメールのやりとりであって、そのあたりが、コミカルな場面のつくりも含め、じつに秀逸なのである。たまらないものがある。そう、どれだけどん底の気分にあっても、好きな相手からの連絡一つで、助けられてしまうことがある。思春期に固有なことではないが、思春期に顕著なことでもある。それが伍代や大丸の友情を前段とし、たいへんよく描かれている。藤田さんからのメールが着信したとたん、携帯電話をするどい手つきで開く剛の表情を見られたい。あれはたしかにギャグである。藤田さんのチャーミングさ(藤田さんには呼び捨てしたくないような魅力が絶対にあるよ)も半ばギャグである。しかしギャグである以上に、少年の励まされるが何たるかを、的確に再現している。いやほんとう。

 友情と恋愛の両方を糧に、ようやく剛は〈そうだ…忘れてた! スゲェしたいことあるじゃんオレ!! 白百合だけは卒業すっぞ!! 藤田さんやみんなと一緒に!!〉という決意とともに晴れやかな笑顔を取り戻すのだったが、それを、学費の工面を理由にカラオケ・ボックスでアルバイトするエピソードへとシームレスで繋いでいくのは、展開上、うまく出来ている。作者の技術だといえる。かくしてこれが、親子間の葛藤を題材にしている一方で、主人公にとって高校時代最後の夏休みを舞台にしていることがわかりやすくなっている。

 実際問題として、00年代以降、ヤンキー・マンガのジャンルは、夏休みをスキップしてしまうことが多い。その理由の一つは、学生生活の内容がどうというよりも、学園をベースに、国盗り合戦、軍記物をやっているにすぎないものがほとんどだからであって、おそらくは、作中の人物を内戦状態の外へ置き、ドラマを付け加えるのは、物語に余剰を持ち込むこととなりかねない、つまりは不要な設定であると見なされているためで、『ナンバデッドエンド』が、他と一線を画しているのは、やはりこの点、学生生活をあくまでも学生生活として描くこと、不良少年のモチーフを、国盗り合戦や軍記物のスタイルへとすり替えるのに適した方便とはしていないことだろう。驚くべきは、それが結果的に、しょせん地区予選程度の抗争劇を繰り広げているにすぎない他の作品に比べ、特攻服をまとった主人公による全国制覇という、スケールの大きな成り行きを孕ませてしまっているところでもあった。

 いずれにせよ、都内にある伍代の家で居候する剛は、渋谷の街に出、カラオケ・ボックスのアルバイトを得る。これは、距離と交通を考えるなら、千葉の実家にいてはありえなかったシチュエーションをもたらしているのだが、そこでストーリーに入ってくるのは、どうやら渋谷では知られた顔であるらしい二人組、見るからに凶悪そうな雰囲気を漂わせたグリとグラのコンビである。今後の展開を先取りしていえば、グリとグラの存在は、暴力を縦の軸に、不良少年のイメージを横の軸にしながら、剛と猛の兄弟たちと一つの対照をなしていくこととなる。

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