ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2010年04月07日
 女神の鬼(15) (ヤンマガKCスペシャル)

 時として人は、趣味や世代の違いごときを理由に争う、壮絶な諍いを繰り広げる。しかしその、たかだかにすぎない程度のことが死活問題にまで発展してしまうような水準の持ち方、トライブやイズムとでもすべき対立の身も蓋もないありさまに、今日性がうかがえるのであれば、田中宏の『女神の鬼』が、作品の舞台に、高度に資本化され続けていく社会においてメルクマールたりえる80年代の過去を選んでいるのは、現代史の本質を探るうえでの必然にほかならないのであって、まあ作者がどれほど自覚的であるのかは定かでないにしても、さすがすぐれた嗅覚といえよう。この15巻の冒頭、鎖国島の王様を目指すギッチョのため、そして自分の不甲斐なさを晴らそうとし、単身、西側のテリトリーに忍び込んだアキラが、家屋にされた落書きを目に、呟く言葉を見られたい。〈よいよ‥‥見覚えのあるラクガキがあるわい‥‥うす気味悪ィモンばっかし描きゃ〜〜がって…〉そこには、場所を本土と離島に違えても何一つ変わらない、決して理解不能な者同士のあいだに横たわる価値観の衝突が、暗に示されているのだと思う。広島の市街にあって、のちほど鎖国島に集められていった不良少年たちは、みな同類、鬼として忌むべき存在に一元化される。だが結局のところ、そのなかにも差異の避けられぬことが、まさしく命を賭すほどに彼らを決戦させているのである。

 ところで先々の展開のネタを割ってしまうことになりかねないのだけれども、ちょうど発売のタイミングが重なった本巻収録分(第百二十二話)と『ヤングマガジン』NO.18掲載分(第百十八話)は、ぜひとも合わせて読まれたい内容になっている。後者に対する伏線の一部が前者に含まれているからなのだったが、それ以上に、寄生族と呼ばれる少年たちの存在感が、双方を通じ、ぐっと高まる仕掛けになっているためでもある。社会からは悪とされ、鬼とされ、鎖国島に送られていったのは、いわゆる暴走族の不良少年ばかりではなかった。ドングリマナコくんを例に、いっけんすれば弱々しく、人畜無害の坊ちゃんであるような少年たちが、他方に含まれていた。不良少年でもない彼らがどうして、鎖国島に追いやられなければならなかったのか。西側のテリトリーに入ったアキラを介し、ついに読み手はその理由を知ることとなる。壁一面に貼られた幼女の写真に〈………‥なるほど‥‥いわゆるお前ら寄生族っちゅ――のは…違う意味であっちで暮らせん鬼っちゅーコトか〉と納得させられるのであって、そうした趣味嗜好をまったく、変態の類としてしか理解できないため、不良少年たちに蔑まれた目で見られていることが、あきらかになるのだった。が、ここで留意しておきたいのは、やっぱり変態って気持ち悪いよね、ということではない。暴力に走ることも、性癖が異常であることも、社会の側からすれば、その質の違いは関係なしに、病巣として切り離したいということなのである。また、15巻の段階で寄生族の〈ホンマの王様〉としてアナウンスされている人物の正体がじつは、『女神の鬼』のなかでも、きわめて病んだ魂の持ち主ともいえる○○○である点は見逃せない(現時点では伏せておくのがよいだろうね)。

 要するに現在の感覚にしたら厳しめであるぐらい、暴走族も寄生族も、犯罪者でなければ病気のせいであるかのように扱われているわけだ。そこに物語が80年代であることの理由を見てよいものの、いやじっさい、12巻でギッチョが生まれ故郷を発たんとするくだり、松尾老人が問うとおり、世間から鬼と判断されてしまった以上、社会の側に彼らを受け入れられるだけの余地はない。当人たちにしても、この社会には自分が生きられる環境はないと察しているので、鎖国島へ渡ることを待望するよりほかなかった。

 かくして、もはや離島にしか居場所を与えられなかった若者たちの、トライブやイズムを違えてしまったがために共存はかなわず、互いを打倒しなければ自己の正当性も得られない、このようなサヴァイヴァルが幕を開けているのである。さらにそれは同世代間の闘争を、そして異世代間の闘争をも内包するだろうことは、とうとう西側への潜入を見つけられてしまったアキラを取り囲む敵、敵、敵の面々によってはっきりとさせられている。噂に聞いた先輩風情、元極楽蝶、宿敵の金田、それらは必ずしも一枚岩ではない。だが、各々の因縁が絡んだ先でアキラと、ひいてはギッチョと、真向かいの等しい側から対立するようなかっこうで結びついている。このへん、田中宏の緻密な設計図が感じられるところであって、ようやく鎖国島以前のエピソードが結実してくるのだけれど、構造のレベルでいうなら、かつては大勢を巻き込み、広い枠内で相対化されていた者同士を、狭い範囲に移すことで、その相対化をより直接的にし、つよめることになっている。ここで注意しておきたいのは、そうした相対化の免れえないことに、作中の人物たちが自覚的な点なのであり、むしろ彼らは進んでそれを引き受けているがゆえに、諍い、争いのなかに身を置くことを良しとしているのだ。もちろん、サヴァイヴァル自体はプロセスであって、方法上の問題にすぎない。結果としてのぞまれているのは、間違いなく、自他の優劣を明確とすることにある。この意味において、王様になることで獲得される絶対性とは、鎖国島においてじつに効率的な措置、具体的な権利だろう。

 鎖国島の王様とは、いわば相対化を前提とし、その地位の、価値が求められるような計算である。ただし、すくなくとも一人だけ、これを共有することなく、王様になろうとする人間がいる。そう、主人公のギッチョにほかならない。彼の闇雲なスタンスは、鎖国島の特殊なルール下にあっても、常軌を逸していることは、13巻からこちらの展開が教えているるとおりであるし、目的の前にはほとんどのライヴァルが意識されていない。あくまでもア・プリオリな欲望として行使されている。際立って純粋といっても差し支えがないと思う。ここで押さえておきたいのは、アキラをめぐり西側の連中が一堂に会する場面、ほぼ初見である渥美と荒木に対し、雛石兄によってギッチョが〈何より‥‥最後の‥‥‥‥‥いや‥‥最も色濃い‥‥内海一派じゃ!!〉と紹介されていることであった。渥美、荒木、内海の関係性についての詳しくは省くが、まず重要なのは、彼らからは内海を代理する人間としてギッチョが認識されている、この点だろう。濁りの巣のエピソードに描かれていたように、内海は亡くなった恋人(女神と言い換えてもよい)の記憶を手がかりに、トライブやイズムを越えようとした、あるいは一時的に越えていったのだけれども、結局のところ、社会から鬼として見なされたまま、死んだ。その役割をギッチョの引き継ぐかもしれない可能性が、渥美と荒木との邂逅を通して、読み手に仄めかされているのである。しかし同時に思い返されたいのは、1巻の幕開けで不吉な予告編のごとく描かれていた風景、悲痛なギッチョの独白であって、もしもあれが破滅をあらわしていたのだとしたら、純粋なまでの欲望の先、鬼として鬼の群れのなかを生き抜いたギッチョはいったい、何を果たすことになるのか。物語は未だ予断を許さずに続く。

 14巻について→こちら
 13巻について→こちら
 11巻について→こちら
 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 8巻について→こちら
 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 1巻と2巻について→こちら

 『KIPPO』1話目について→こちら
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