ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年03月09日
 『文學界』4月号掲載。本筋とはぜんぜん関係のない話から入るのだけれども、今月より『文學界』ではじまった田中和生の連載が、まあ以前連載されていた前田塁のものに比べると、いささか浅はかではあるとしても、なかなかにおもしろく感じられたのは、平野啓一郎や渡部直己への批判、もしかすると田中自身は批判ではなくて批評だというかもしれないが、しかし批判にしか読めない、とはいえ渡部や平野に対する言葉としては圧倒的に正しい旨が、僕の卑しい野次馬根性のようなものに触れるからなのかもしれなかった。その連載「文学まであと少し」のなかで、田中が、この車谷長吉の「世界一周恐怖航海記」について、次のように言うている(車谷の真似)。〈その楽しみの多くが「車谷長吉」という名前の意味に依存したものであるのは否定できない〉。田中は、かねてより固有名詞(これは、いわゆる固有名と区別し、あくまでも広告的な機能、コピーライトの言葉として考えるべきであろう)の問題に取り組んでいるのだが、それは車谷のばあい、当てはまるものではない。「吉本ばなな」が「よしもとばなな」に表記を変えたようなケース、つまり、作者のキャラクター化が作品内容を担保するのとは、質を異にする、同様に捉まえることはできない、というのも、たしかに今後いっさい車谷が私小説を書かないという取り決めがあったとしても、それはけっして、車谷という作家が「私」を捨て去ることを意味しないからである。田中は、「世界一周恐怖航海記」の第一回における、あるやり取りを〈それを読者が作家のユーモアと受けとれなければ危険である〉といっているけれども、そのユーモアは、べつに車谷長吉という固有名詞によって守られているものではない、と思う。

 さて。1月16日からはじまる、前回の続きである。予告どおり、船上で行われた車谷の講演で、幕が開く。この講演が1月22日の些細な諍いを呼び寄せる。こういったつくり、それはこの旅行記の構成を指すのではなくて、この世の成り立ちみたいなものが、車谷をゲンナリさせるんだろうか。あいかわらず、景色の描写に字数は費やされず、人間の業を眺めては、文学に囚われ、死にたい、と願い、死にたくないな、と考えている。車谷は芭蕉の詠んだ句から〈人生は死出の旅である。別にいまわのきわにいる人だけが、死出の旅に出るわけではない。人は生まれた時から長い死出の旅を歩んでいるのだ〉という連想を浮かべる。ああ、じつに暗く重い旅路である。そのなかにあって、道連れのお涼さん(詩人の新藤涼子)の存在が、いや、和むなあ。〈お涼さんは物怖じしない人である。本来は乱世に生きる人である〉と車谷は書いているが、そのきっぷの良さは、22日の記述のなかにある「あんた、結婚したことがないでしょう」「結婚したことない人は、だいたい聞く耳持たないのね。あんたみたいな人が多いよ」といった言葉にも、よく現れている。ひゃあ、といった感じの言い切りだ。そういうタチだから、逆に、彼女が涙を流したり、捻挫をしてしまうくだりが、話の流れのなかで、生きている。ここで、最初の田中の話に戻るが、それというのも、けっして車谷や新藤涼子という固有名詞に保証されているわけではなくて、あくまでも書かれ方の問題へと還元されるべきものに違いない。ところで。タバコ喫みの僕は、車谷がこぼす〈タバコを喫うことが一番の楽しみだ。これなくして生き延びても意味がない。生きる価値がない〉といった箇所に、わかる、と膝をはたく。

 第一回について→こちら

 『反時代的毒虫』について→こちら
posted by もりた | Comment(2) | TrackBack(0) | 読書(06年)
この記事へのコメント
田中は平野、渡辺に馬鹿扱いされたから
意趣返しをしてるんだけどね
坪内を「鋭い指摘」ってのが馬鹿まるだし
あれは当時「噂の真相」に書かれたののぱくりなのに
Posted by ishi at 2006年03月10日 10:50
ishiさん、どうもです。
ただ、まあ、平野と渡部がいっている(やっている)こともどうかな、とは個人的には思います。
Posted by もりた at 2006年03月10日 14:00
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