ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年03月08日
 〈映画の見方〉がわかる本80年代アメリカ映画カルトムービー篇 ブレードランナーの未来世紀

 クローネンバーグの通っていた大学の教授にマクルーハンがいて、映画『ビデオドローム』に出てくる博士のモデルこそがマクルーハンだというのは有名な話なのかな、寡聞にして僕は知らなかったが、町山智浩『ブレードランナーの未来世紀』は、そのような裏話ふうのエピソードを用いながら、〈保守的で脳天気な八〇年代ハリウッド映画の陰で、スタジオから締め出された映画作家たち〉が作った〈異様な映画〉の数々に、批評の言葉をあててゆく。取り上げられているのは『ビデオドローム』、『グレムリン』、『ターミネーター』、『未来世紀ブラジル』、『プラトーン』、『ブルーベルベット』、『ロボコップ』、『ブレードランナー』といった作品である。たしかに、どこか仄暗く、陰気なイメージを引きずるものばかりだ。簡単にいってしまうと、エンターテイメントとして機能しつつも、明確なハッピー・エンド型のストーリーと割り切れない、そういう映画が並んでいるのだと思う。それらの作品には、1946年に作られた『素晴らしき哉、人生!』という映画のモチーフが通底音のように流れている、という町山の見え方が、ここでのロジックを動かしている。

 町山は〈残酷な現実を見せたうえで、ハッピーエンドでアメリカが目指すべき理想を示した〉のが『素晴らしき哉、人生!』だといっている。ここで重要なのは、80年代に目指すべき理想へと近づいたアメリカが、しかし行き着いたのは、やはり残酷な現実でしかなかったのであり、ある意味そのようなパラドクスの反映として、本書で論じられている作品群は存在しているということだ。そして現在という時代は、まちがいなく、その延長線上にある、眼前にはつねに残酷な現実が、突きつけられている。とはいえ、町山が見いだすのは、そこにある絶望のさらなる反転である。〈『素晴らしき哉、人生!』(四六年)の主人公ジェームス・スチュアートは事業に失敗して「生まれてこなければよかった」と自殺を図るが、天使に「自分が生まれてこなかった世界」を見せられる。町は荒廃し、愛する人々は悲惨な運命を辿っていた。どんな小さな人生でも未来に影響を与える〉。このような言葉のうちにおいては、町山がいったいどこに力点を置いているのか、とてもわかりやすく示されているといえる。

 また町山は、個々の作品のなかで、悪夢あるいは妄想が、現実との区切りなく、登場人物たちの内面を浸食してゆく様子に、ピントを合わせている。それは、ハリウッドという仮構された世界のなかで、現実を忘却させようとする体制の、そのバイアスに面した監督たちの心境の投影であると同時に、『ブレードランナー』の項で述べられているように、ポストモダンの世界では、シミュラークルが蔓延し、主体からは固有性やリアリティが剥奪さている、といったことの含意であろう。〈わかりやすい例を挙げると、ポルノはセックスのシミュレーションだが、実際のセックスでアダルトビデオのように女性が反応しないと男性は自分がセックスをしていないように感じる。また女性はビデオを真似して感じている演技をする。アダルトビデオのほうが現実に真似される「本物」になってしまったのだ。これと同じで、本来「真似事」であったはずのシミュレーションが現実より優位に立つ事態はあらゆる場所で起こっている〉。おそらく、我々が生きているのは、そのような虚構ともつかない、現実なのである。

 だが先ほどもいったけれど、町山は、そうした状況から絶望のみをピックアップしてはこない。絶望以外に差し出されたものを指して希望とはいわないが、すくなくとも書き手の姿勢に関しては希望を感じることができる。ただし全体の調子からすると、けっきょく身体による実感(の重要性)みたいなところに問題は帰結するのかな、といった気がしないでもなく、そういった認識の一点突破ではフォローしきれないほどに、ややこしい、不自由さにこの時代は覆われているとしたら、という疑問は残った。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(06年)
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