ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2010年03月21日
 A−BOUT!(1) (少年マガジンKC)

 結局のところ、いま現在ヤンキー・マンガのジャンルに用いられるリアリティという形容は、不良少年にだって内面があるんだよ、といった程度のことを指しているにすぎないのであって、それはたいていの場合、生まれや育ち(遺伝や環境)の問題へ、からめ捕られていくのだし、シチュエーションの現実離れしたものが時としてリアルだと受け取られてしまうのも、所詮はそれによっている。この傾向は、高橋ヒロシのフォロワーであるような、要するに、1975年前後に生まれた作家たちに顕著である、というのは過去にも繰り返し述べてきた。が、しかし彼らよりも若い世代の、つまりは『クローバー』の平川哲弘であったり『足利アナーキー』の吉沢潤一であったり『ランチキ』奥嶋ひろまさであったり『A-BOUT!』の市川マサであったり、といった作家たちになってくると、そうした事情は少々違ってくるみたいだ、というのもさんざん述べてきたのだけれど、その特徴をわかりやすくすれば、さしあたり内面がどうというよりも不良少年を決して利口ではないものとして描いていること、になるだろう。いやそれは必ずしも悪い意味ではない。たとえば文学の歴史が証明しているとおり、内面に対する固執は軒並み表現と物語のあり方をせこくしてしまう。そのようなせこさをとっとと免れている点に、新しいヤンキー・マンガ作家たちの可能性を見ることができる。先ほど名前を挙げた市川マサの『A-BOUT!』に出てくる不良少年にしたって、この1巻を読むかぎり、たいへんバカだ。そして馬鹿さ加減がそのまま、作品の魅力へと通じているといっていい。不良の巣窟として知られる私立光嶺高校、そこに転校してきた主人公の朝桐慎之輔は、喧嘩上等のうえ、目立とう目立とうとするのだったが、じっさい彼の登場を期に校内のパワー・バランスは変わりはじめゆく。事の起こり自体は不良マンガにおける古典的なヴァリエーションにほかならないものの、主人公の頭の悪さをよくあらわせていることが、ページをめくった先、筋書きをわくわくさせるところにまで持っていっているのである。しかしバカバカくどくて申し訳ないが、シリアスに考えたときでさえとくに注意してきたいのも、やはり朝桐の馬鹿さ加減にほかならない。彼の、きわめて単純化された思考回路は、いうなれば内面のせこさに対するアンチテーゼなのであって、反証的なスケールの大きさをともなっているため、腕力のつよさやタフさとはべつのレベルでもライヴァルであるような他の人物たちのこだわりを小さく見立て、軽く凌駕する、その根拠たりえているのだ。
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