ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年03月07日
 村上龍文学的エッセイ集

 村上龍は好きな作家のひとりである。たとえば、僕がドアーズやピンク・フロイドを聴くようになった直接のきっかけは、彼の書いた文章のなかでそれらの固有名をよく見かけたからであった。そのような意味で、ロック・ミュージックに関する知識のいくらかは、村上龍経由で仕入れてきたといえる。とはいえ、小説はともかく、そのエッセイの類を真面目に読んでいたのは、『すべての男は消耗品である』の最初の1、2冊ぐらいまでで、以降は、ほとんど関心を持たなくなってしまった。それというのは、じょじょに増えてきた映画制作やキューバ音楽についての記述との相性がそれほど良くなかったためなのだろう、きっと、というのが自分のなかでの一応の納得であったのだけれども、この『村上龍文学的エッセイ集』の「あとがき」を読んで、ああ、そういうこともあるのか、と思ったのはつまり〈一九九〇年代にエッセイの書き方が変わった〉〈洗練を織り込んだエッセイを書かなくなった〉〈エッセイ・作品において洗練が機能するには、書き手と読み手を包み込む共同体内に自明の文脈があることが前提となる〉〈あるときからわたしは、共有されていない文脈について意識し、そのギャップをエッセイのテーマにしてきたような気がする〉とあるからで、まあ、その言葉を額面どおり受けとる、鵜呑みにするのであれば、おそらく僕は、洗練の織り込まれていないこと、言い換えると、村上龍の、創作ではなくてノンフィクショナルな記述のうちにあるフィールに共感できないというのが、ひとつ、遠ざかる理由としてはあったのかもしれないねえ、と。もちろん、それは僕という読み手が〈書き手と読み手を包み込む共同体内に自明の文脈〉への依存を欲しているということでは、けっしてなくて、むしろ逆の方面、では村上龍という書き手がいったい何を足場に置いているのか、そうした部分が不透明に見えてしまうことへの懸念である。たしか『ラブ&ポップ』の「あとがき」で村上が、女子高生のサイドに立ってこれを書いた、みたいなことを記したのに対し、どこかで赤坂真理が批判的な旨を述べていた記憶があるけれど、僕が村上のエッセイを楽しまなくなったのも、もしかするとそれに似た感情ゆえになのかもしれない。さて。内容とあまり関係のないことを書き連ねてきたが、それでもこの本のなかでとくにおもしろかった箇所を述べるとしたら、じつは最初の数ページ、たとえば埴谷雄高や大岡昇平、吉行淳之介に瀬戸内寂聴などの人柄について書かれたところになる。なぜか考えてみると、それらは文壇の記憶といった意味合いで、ある種の共同体内にある自明の文脈に寄り添っている、要するに良くも悪くも、洗練の宿った文章として成り立っているからなのであろう。

 『半島を出よ』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(1) | 読書(06年)
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村上龍 文学的エッセイ集
Excerpt:  「限りなく透明に近いブルー」で村上龍が文壇に登場したときに、いまの村上龍を想像できた人はいただろうか?ドラッグやセックスの描写が話題となった20代前半の芥川賞作家を異質なものとして見ていた人も多いだ..
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