ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年03月04日
 ネット社会の未来像―神保・宮台マル激トーク・オン・デマンド3

 『ネット社会の未来像』は、宮台真司と神保哲生がホストとなり、テーマごとに、東浩紀や水越伸、西垣通、池田信夫といったゲストを迎えるかたちで、構成されている。僕個人の関心はやはり、東浩紀が「環境管理」と言い換える、「監視」あるいはセキュリティ・レベルの助長、つまり今の我々にとって他者がどのような働きかけを持っているか(あるいは持っていないか)、また、そのようにして出来上がった社会は、はたして生きやすいものであるのか、生きにくいものであるのか、といった項に高く、要するに、コミュニケーションと自意識の傾向推移、東ふうにいえば「動物化」の問題に帰結すると思うのだが、そのなかでの、日本語の言語条件が日本という国に特殊な匿名性を導いているとして、〈とくに何人ということもなく生きていていいという、独特な浮遊感を醸しだした日本社会〉は、しかし〈浮遊感を浮遊感のまま維持できる環境は壊れてしまった〉ので、だからといって〈日本人の伝統や歴史を持ち出してハードランディング〉しようとせず、あくまでも〈ソフトランディング〉するためにはどうしたらいいか、といった課題の提出につよく実感できるものがあった。もちろん、それ以外にも、興味深い箇所は、いくつか存在している。たとえば西垣通の項で出てくる、競争の逆説の話なども、そうである。ネット社会における平等性というのはウソで、神保哲生の言葉を借りれば〈ネットは基本的に自由で、参入障壁もないから、誰でも入れる。しかし基本的に自由だからこそ、弱肉強食の淘汰が起こる。弱肉強食が起こらないような措置をとれば、それが今度は参入障壁になる。自由競争のジレンマがインターネットのコンテンツに現れてしまった感がある〉というわけだ。まあ、これはある意味で一般論のように思えるが、しかしブログなどのツールが、以前よりも汎用化したからこそ、ようやく適用できる一般論に他ならない。個々の鼎談で取り上げられるテーマは多岐に渡っているので、内容を一掴みにするのは難しいが、しごく簡単に大枠を取り出すのであれば、既存のマスメディアというか、テレビや新聞などの、大衆に影響力のある現在的なシステムと、インターネットを軸とした新規のネットワーク・テクノロジーとの対比を用い、両者の功罪、優位性と弊害を検討するものになっている。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(06年)
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