ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2010年02月16日
 花宵道中 / 1 (フラワーCアルファ スペシャル)

 報われない恋も、叶わない夢も、悲しいね。報われないことを知りながら誰かを想い、叶わないことを知りながら夢を見て、だけどたったそれだけのことが救いになってくれないのは、なお悲しいよ。斉木久美子の『花宵道中』は、江戸時代、吉原、遊女の世界を舞台にしている。宮木あや子の同名小説のコミカライズであって、残念ながら原作のほうは読んだときがないのだったが、しかしその、マンガ版のせつなさにたっぷり酔わされてしまう。花魁もの、とでもすべきは、この国のフィクションにおいて連綿と受け継がれてきたジャンルの一つであり、近年では安野モヨコの『さくらん』のヒットが記憶に新しいけれども、そうした系譜に『花宵道中』も入れられるだろう。しかしこれがどうしたって胸痛ましいのは、すくなくとも1巻に収められたエピソードを読むかぎり、ヒロインたちの願いが次第に悲恋の色合いを濃く発し、そしてじっさい、はかなく壊れ散ってしまう、そこに焦点が絞られ、物語がつくられているためだと思う。花魁もの、において遊郭というのは、たとえば夜の商売を題材にしたストーリーが女性によって構成される社会の一片を比喩しうるとすれば、それをさらに寓話化することで直接的な現実のイメージを緩和、虚構のなかに共感の領域であるようなエモーションを生成する形式だと推察される。男性の権力が優位であり、金銭や身分の格差が明確であるあまり、立場が弱いほうに置かれた人間の、ある種の生きづらさが著しく見える、そこに感情移入のドラマが盛られているのである。と、仮説を立てるとき、『花宵道中』では、どれだけ環境が不自由であろうとも、心は自由でありたい、こうした願いが、だが空しく潰えてしまう、その情景がまさしく恋愛の姿を借りて、描かれている。もちろん、複数の人物が入れ替わり立ち替わり主人公となる、つまり連作のスタイルをとっているようなので、それがすべてのテーマであると現段階では言い難い。けれど、第一部のクライマックス、夢想のベールとともに述べられた〈あさ…おまえは もう 体に咲く花をだれにも見せなくていい〉という言葉の、ああ、なんて印象的なことかよ。そこでのヒロイン、朝霧がいったい何を望んだのか。当人と読み手以外は誰も知れない。報われることもなく、叶うこともなかったのだから、当然だろう。そう、たしかにそのとおりであることが、悲しい。せつない息吹を吐くのだった。

・その他斉木久美子に関する文章
 『ワールズ・エンド』について→こちら
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