ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2010年02月13日
 近キョリ恋愛 6 (KCデラックス)

 ああ、みきもと凛の『近キョリ恋愛』たるや、こんなにもコミカルでありながらロマンティックでいてくれることがうれしい。6巻に入っても勢いは弱まらず、なおおもしろく読まされてしまう。たとえば「liner notes」という、「あとがき」めいた箇所で作者は、この巻の〈後半2話は中継ぎ的な話なので、テンション高めに描いてみました〉と述べているが、たしかにそれらが〈テンション高めに描〉かれているのは疑いようのない一方、どちらもたんに〈中継ぎ的な話〉として見てしまうのがもったいないくらいチャーミングなのであって、こういう一話一話の、内容のじつに富んでいるところが、最高に、好き、なのだった。

 ところでその、後半の二つのエピソード、23話目にあたる「天才少女の新年」と24話目にあたる「天才少女の親友」は、女子高生と男性教師の秘密にしておかなければならない恋愛を物語の中心の点としたとき、それを事情的に知っている周囲、周辺の人びとの態度を半歩ほどひろく足の伸びた範囲で盛り込んでいるのだけれど、何よりもまず、ヒロインである枢木ゆにのファミリーときたら、相変わらずの愉快な面々である。とくに、るーちゃん(ゆにの弟)に催眠術をかけられ、猫のぬいぐるみと戯れる親父さんの間抜けぶりがたまらない。催眠術を破られて、落ち込むるーちゃんも可愛らしい。ママさんも美人であるし、こんな家庭に生まれたかった。というのは、まあ冗談半分だが、ややまじな話をすれば、そうした家族の雰囲気が、ゆにの恋愛にとって、決して高い障害となっていないことに、『近キョリ恋愛』というマンガの特徴がよく出ていると思う。もちろん、それはギャグとしての評価で済ましてしまってよい部分ではある。しかし、同時にギャグでありえているのは、ゆにの奇抜な、独特な、とにかくチャーミングな個性を、登場人物たちは当然のこと、読み手の側も暗に認めているからなのであって、それに見合うだけの環境を作者が用意しようとしたことの必然によっている。ゆにの親父さんが、教師である櫻井ハルカとゆにの交際に反対的であるのは、必ずしもギャグではない。だからこそ、ゆにもハルカもそれをシリアスに受け止めねばならない。にもかかわらず、ゆにの変化球気質の言動がそのままストーリーの魅力になっている以上、作品の枠組みもまたそれに従っていかなければいかず、結果、他の登場人物たちをもそこに準拠させることとなっている。これがギャグに等しい傾きをつくっているのである。いっけんギャグのようでありながら、あくまでもゆにとハルカの恋愛がロマンティックなのは、作中のレベルにおけるコミュニケーションが、まじ(真剣)なためにほかならない。

 かくいう〈中継ぎ的な話〉として、ゆにの家族をアクセントに使ったのが23話目であるなら、24話目は彼女の親友であるナミ(名波菊子)に大きな役割を与えている。ナミ、今まであまり目立ってこなかったが、なるほど、こういう娘だったのかあ、ならば、ゆにの個性とも五分に付き合っていけるだろうね。いやここはふつう、少女マンガ的な展開を期待するとしたら、最初にゆにが誤解したとおり、真実を隠されていたことがある種の軋轢を生んでしまう、というふうに話は進んでゆくのだけれど、そうはなっていない。ちょうどそのようなセオリーをずらしてゆくかっこうで、エピソードは山折り谷折りされているため、これもギャグのように見られる面が多い。だが、先述したのと同様、作中のレベルでは、シリアスに友情の温度が確認されているので、きれいに畳まれた決着がもたらされるのである。

 5巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他みきもと凜に関する文章
 『17歳』について→こちら 
 『水曜日のライオン』について→こちら
 『タイヨウのうた』(原案・板東賢治)について→こちら
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