ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2010年01月17日
 少女共和国 1 (講談社コミックスキス)

 この世界を、もしくはこの社会をいかにして生きるべきか、という問題は多くの未成年にとって、この学校を、この教室をどう生きればよいのか、という問題に置き換えられるのであって、それはすなわち、ほとんどの人間が義務教育のために学園生活を経験してゆくことが必定となっている現代の、正しく普遍的なリアリティとして機能しうる。学校や教室の、狭く小さい範囲を舞台にしたフィクションが、広い共感と深い主題、高い訴求力を得、表現と倫理の大きな可能性を持つのは、そのためにほかならない。もちろん、時代や世代がくだれば、学園生活の内情は様変わりするだろう。しかしそれというのは、しょせん様式の捉まえ方にすぎず、決していじめの文化がなくならないように、本質的あるいは根源的な転換が、すくなくとも今のところ、起きているわけではない。

 こうした認識の上に立ちながら、ぜひとも注目して欲しいマンガが森下薫の『少女共和国』である、といいたい。すくなくとも、この1巻で繰り広げられているドラマには、家庭と学校とを往復し、共同体に居場所を求めようとしているだけのことが、たくさんの不条理となり、主体を脅迫、傷つき、苦しめられるなかにも必ずや突破口はあるのだと信じながら、もつれてしまう足どりの、ひどく切実なステップが描き出されている。

 十四歳、中学二年生の主人公、透子によれば〈あたしが通っているのは地域でも評判の公立中〉で〈熱心な先生と優秀な生徒が集まってるということらしい〉のだが、教師たちは表面を取り繕うばかり、誰も何も〈生徒のホントの姿なんて――〉知らない。当然、学級委員として皆から信頼されている彼女がじつは〈いつ誰が敵になるかわからない中で うまくやんなきゃいけないからね〉と思っているただの傍観者であることも。クラスメイトの一人がいじめに遭っているのを無視することさえ、透子にしてみたら、自分が安全地帯に居続けるのに必要な日常の一部でしかなかった。だが、ルイという女子生徒が転校してき、無邪気にも教室内のアンタッチャブルに触れはじめたことから、苛立ち、陥れようとするのだけれど、それが次第に予想外の関わりへと転じていくことになるのだった。と、これはあくまでも導入を説明したにとどまるのであって、そこから物語が、そして透子の立場が二転三転するところに、は、と息詰まるぐらいのエモーション、並びに今日ならではの戦略的な思考が生まれている。

 万人が幸福になれるだけの容量を制度は維持していないので、必然、他の人間を蹴落とさなければならない。としたとき、『少女共和国』が特徴的なのは、大人対子供、の構図を明確に導入している点である。大人の存在を仮想敵に定めることで、あらかじめ寄る辺の失われていた子供たちは、自立的な姿勢を確保してゆく。たとえば、透子にとって最大の恐怖は、共同体の枠から逸脱してしまい、孤独にさらされることであった。学校にあっては、同窓や教師との関係を乱さぬようつとめ、家庭においては、実母や義父との関係を最善に保とうとする。フラストレイトからか、味覚障害や拒食とおぼしき症状を人知れず抱える羽目になってしまっている。しかしそれは、ルイとの出会いや、問題児扱いされている運野という男子生徒との接触を通じ、回復の兆しを見せるのだが、この、恩恵の価値は逆照射的に、自分に欠損を与えた者への敵愾心、抵抗となって、具体化されるのである。

 いくつものストレスが重なって、担任の女性教師の心ない態度に〈どうして……どうしてあたしたち 大人の都合で傷つけられなきゃならないの!?〉という憎しみを得た透子が、やがて〈先生 ここはさ 先生の王国じゃないんだよ あたしがそれを 気づかせてあげる〉と反旗を翻し、悪意に充ちたプランを企てるプロットは、なかなかの迫力を有している。

 しかして注意しておきたいのは、『少女共和国』に用いられている、大人対子供、の図式が、必ずしも権力や体制を向こうに回した(いうなれば前時代における)勧善懲悪の簡略になっていないことだろう。むしろ、権力や体制の構造は変えられない、そのような諦念のなかに限られてしまった幸福を掴むべく、主人公である透子は、悪役になるのも厭わぬほどに狡猾な表情を、見せているのではなかったか。もちろん、それが幼い独我論に走った結果であったり、利己的な心理の産物にすぎなかったならば、ばかばかしくて読んではいられない。嬢ちゃんや坊ちゃんの我が儘なんて聞いちゃられないからね。だが、そうではなくて、ここに描かれている子供の存在とはつまり、欠損を持った者同士がささやかに生きるよりほかないアサイラムの意味を指しているのであり、彼女はそれを守るため、懸命に身を挺し、踏み荒らされないよう、罠を張り巡らすのだ。

 あまりにも消極的な、あまりにも際限的な、あまりにも悲観的な防衛戦にも思われる。勝利に値する条件なぞ、はじめから用意されてはいない。いや、だからといって作品が、暗い認識ばかりを際立たせていないのは、たとえ一縷であったとしても、溜め息のつらさをよけて、光のごとく差し込んでくる希望が、透子や周囲の人びとの、束の間の笑顔を、あざやかに映し出すことができているからである。大人を抜きにした学園の物語をあえてつくらないで、このマンガは、学校や教室を、世界や社会そのものの、直接の現実として確立することに成功している。そうしたさい、生徒の、いま手にしている希望の、小ささにもかかわらず、なんて尊い輝きか。つい泣ける。
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Posted by 森下薫 at 2010年10月12日 08:38
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