ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年02月26日
 忘れないと誓ったぼくがいた

 忘れないと誓ったぼくがいた。だが、ぼくは忘れてしまう。いや、そもそものはじめから覚えてさえいないのかもしれなかった。あるひとりの少女が実存的に消失する、そういうファンタジックなワン・アイディアが、へたに弄られるのではなくて、ストレートに展開されることで、爽やかに、切ない、青春と恋愛の情景が成り立っている。平山瑞穂といえば、きわめて不吉なデビュー作『ラス・マンチャス通信』の終盤で、しかし著しくなった村上春樹ふうのナイーヴさにフォーカスをあてたかたちだともいえる。とはいえ、いわゆる「僕小説」にアリガチな、自意識の過剰さ加減が極力避けられているように感じられるのは、物語に対して存在する語り手の水準が、作者のなかで出来うるかぎり一定に保とうとし律せられながら、これが書かれているためであろう。作中の言葉を引くのであれば〈それを読んでも、書かれているできごとが思い出せるわけじゃない。ただ、それを読んで、どんな場面だったのか想像することはできる〉、おそらくはこの位置である。ある意味で、ここに綴られたものはぜんぶ、現実からは隔離されたフィクションにしか過ぎないのだが、そのフィクションのうちにある現実を、語り手であるところの〈ぼく〉は、懸命に捉まえようとしている。その姿形、けっして内面などといったものではなくて、そういった姿形のほうこそが、物語を動かしてみせる。そして、それはもちろん、読み手の側が物語にコミットする、その態度に近しい。見ようによっては、まあ、予定調和というかウェルメイドというか、ひじょうに都合のいいお話ではあるけれども、この『忘れないと誓ったぼくがいた』という小説のつくり自体が、作中で述べられているように、あくまでも細部からの逆算により構築されたアウトラインに過ぎないのだとすれば、むしろ、そのようにしてなるようになっている、構造上の必然的な帰結として考えるべきなのだった。ところで〈ぼく〉が、携帯電話の着信音に使っているのはドアーズの「ピープル・アー・ストレンジ」つまり「まぼろしの世界」である。それが鳴ったときに〈ぼく〉は、たとえば〈心臓がわしづかみにされたみたいな気持ち〉になり、彼女のもとへと急ぐ。この選曲は、たぶん彼女の〈私ね、小さい頃から、ものの感じ方とかがまわりの人と必ずとこか違っていたの〉云々にかかっており、彼女にとっては、この世界はいささか「ピープル・アー・ストレンジ」なのだが、〈ぼく〉にしてみれば、彼女と過ごす時間こそがまるで「まぼろしの世界」にいることを思わせる、そのような対称性の、わかりやすい明示となっている。

 『野天の人』について→こちら
 『ラス・マンチャス通信』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(06年)
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