ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2010年01月09日
 00年代が終わった。もはや忘れてしまった向きも多いかと思うが、00年代の途中頃にはヤンキー・マンガなんてもう萎みかけだとする風潮があった。たちまち廃れるだろう、と言った人もいた。しかし2010年代に入った現在の状況をいえば、ヤンキー・マンガの一群はかつてと同じか、あるいはそれ以上の市場と影響力を持ちかけてさえいる。このことの意味については、誰かが真面目に検討してくれてもいい、と願うのだったが、個人的には、同ジャンルのファンを自認しているにもかかわらず、こうした盛況を無条件に喜べないのは、質のレベルにおいて、必ずしもすぐれていると信じられないものが高く買われているように思えてしまう場面が多いからである。00年代のヤンキー・マンガが、いかなる系譜を持っていたかは、いずれ詳しく考える必要があるが、とりいそぎまとめるのであれば、99年から00年代にかけ、すでにベテランになろうとしていた高橋ヒロシと田中宏がそれぞれ、『QP』と『莫逆家族』で、不良少年のモラトリアムにも終わりがある、という真実を身も蓋もなく曝露、成熟できないことの不幸を厳しく追及したのと並行し、当時はまだ無名に近しかった山本隆一郎が、01年から06年に渡り発表した『GOLD』で、同じ問題意識を共有、その、限りあるモラトリアムの、絶望のなかにしかありえない不良少年の成熟を描き直してみせたのだった。けれども、こうしたシリアスな、普遍性が高く、ある意味で深いテーマ性を有した作品は、決して絶大な支持を得たわけではなかった。むしろ、このあたりが00年代におけるヤンキー・マンガの低迷期と見なされていたのではなかったか。ヤンキー・マンガというジャンルが、ふたたびのブレイクを果たすためには、03年に『ギャングキング』をスタートさせた柳内大樹を筆頭に、先行する作家や作品群からスペクタクルのみを引用、モラトリアムの苦悩と不良少年のイメージをステレオタイプ化したうえで、あらためて学園生活に夢を託そうとする若手作家たち(1975年前後の生まれが多く、高橋ヒロシのフォロワーと呼べるものも多い)の、そのわかりやすさゆえに若年層をも取り込むような活躍を待たなければならなかった。もちろん、高橋ヒロシが『クローズ』の続編である『WORST』を01年に開始、不良少年のモラトリアムを、軍記物、国盗り合戦のロマンへと、あらかじめ回帰させていたことは、大きな地盤となっていた。たしかに同時期、西森博之や加瀬あつし、小沢としお、(原作者として)佐木飛朗斗などの作家が、独自の路線で、不良少年の題材とテーマを更新し続けてはいたが、現在本流と呼ぶべきは、だいたい高橋ヒロシとその周辺の作家たちになる。しかるに、上述の理由で彼らの作風が少々表層的に感じられる点を、個人的に訝しんでいるのである。そうして2010年代の話をちょっとしたいのだけれど、すでにいったとおり、いまヤンキー・マンガ界の中核をなしているのは、1975年(昭和50年)前後に生まれた作家たちであるが、さらに若い年代がじょじょに登場しはじめていることは、やはり重要だろう。それというのはつまり、平川哲弘(『クローバー』)のことであり、吉沢潤一(『足利アナーキー』)のことであり、奥嶋ひろまさ(『ランチキ』)のことであって、彼らのセンス、とくに人生のプランや暴力に対するカジュアルな感性は、まあたんに実年齢の問題なのかもしれないが、上の世代の作家がやたらイズムをかざそうとするのとは、趣を違えるものだ。そのなかでいち早く頭角を現したのが、平川哲弘であるし、今や『クローバー』はストーリーが14巻も続くほどの人気連載となっている。にもかかわらず、『クローバー』のよさ、に関しては、いまいち掴みづらく、言語化しにくい。しいて挙げるとすれば、その、明るさ、軽さ、ということになるだろうか。いずれにせよ、先行する作家や作品群にはあまり類例のなかった屈託のなさが、一つの特徴をなしているのは間違いない。たとえば、主人公のハヤトやトモキ、ケンジが背景として持っている家庭環境は、決して恵まれてはいないのだけれども、そうした生まれや育ちに結びついていく問題が、物語の説得力を担うのでもない。前巻で彼らが2年に進級しても大きく変わらず、ただ、誰にでもモラトリアムを謳歌する権利があることを主張的にしていったところに、不良がいて、諍いがあって、友情があって、青春がある。そこにあらわされたいくつもの衝突に果たしてどれぐらいの価値があるのか。こうした問いはおそらく、2010年代のヤンキー・マンガを真剣に見ようとするとき、何かしらの目安をつくる。

 8巻について→こちら
 
 1話目について→こちら
この記事へのコメント
はじめまして。
ヤンキーまんがについてこれほど多く語っていらっしゃるブログは珍しく、ときどき拝見しています。
「クローバー」は、絵はかっこいいけど、中身はないですよね(笑) 対照的に「女神の鬼」は、ヤンキーまんがについて徹底的に考えた末に、もうヤンキーまんがとは呼べないところに進んでしまいました。これはこれで、文学的とさえいえるけど、ちょっと読んでいて息苦しい。
「キューピー」のような、テーマ性と娯楽性が両立した傑作に、また出会いたいものです。
Posted by まこ at 2010年01月09日 22:51
まこさん、どうもはじめまして。コメントありがとうございます。

「クローバー」は雑誌で連載を追っているぶんには、肩が凝らず楽しいことは楽しいのですが、単行本で読み返すと、いったい何がしたかったのか、ふと疑問に思ったりもします。ワン・エピソードごとに伏線と呼べるものがあるわけでもなく、深く読ませるわけでもない。ただ、ほんらい不良マンガってそういうもんだ、と言われたら、納得するよりほかないのですが。反面、たしかに「女神の鬼」は高度すぎるかな、と思うところもあります。自分の好みのせいか、いささか後者の傾向を褒めがちなので、べつの意見も知りたく、できればもっとこの手のジャンルを熱心に語るブログが増えてくれるとありがたい、と、つねづね願っております。

「キューピー」いいですよね。作者が、我妻涼のような、生ぬるさを許さぬほどにエキサイティングで、テーマの色濃いダーク・ヒーローを今や描かなくなってしまったのは、小鳥との対比のなかに見るべき点がたくさんあっただけに、少々残念です。
Posted by もりた at 2010年01月10日 12:28
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