ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年02月23日
 ひなた

 まるでこの国のテレビ・ドラマのようなお話である『東京湾景』が、じっさいにテレビ・ドラマ化されたさいに、そのままのかたちを守られなかったのはどうしてだろうか、というのはときどき考える。おそらくは「俗」であることに対する認識の違いが、作者である吉田修一とスタッフの側とのあいだにはあったのではないかな、と思う。それはもちろん、どちらがどうとかいう話とは違い、「俗」であることを、無意識のうちに体現してしまうのではなくて、意図的に作り上げ、ひろく一般的に共有させることが、いかに困難であるか、そのような問題に接近している。この『ひなた』という小説もまた、ひじょうにこの国のテレビ・ドラマっぽいお話ではあるけれども、どうもその、いかにも作りましたふうの「俗」っぽさを前にして覚える戸惑いこそが、あるいは作品の見え方を左右しているのだろう気がする。

 物語は4つの視点をもって語られる。そして、その4つの視点の背景には、メロドラマとして捉まえれば、いささか類型的にすぎる設定が隠されている。とはいえ吉田は、それらを盛り上げ効果の演出に用いず、あくまでも背景のまま静止させておくのである。だから、こうも言える。動的にならない「俗」っぽさに支配されることで物語は成り立っている。

 そのように考えるとしたら、では、そのことの意味はどこにどうやって繋がってゆくのかであろう。たぶん、日常に回帰するのみなのだ。過渡にドラマティックな性格を帯びない、何気ない展開の連続線であるような、そういう自然な変化としてある毎日は、まあ、エンターテイメントには不適切に違いなく、新鮮な驚きもすぐさま凡庸な退屈に取って代わられる。そうした生身の意識による集合が、俗世間というものなのだとして、吉田はここで、その虚しさにも近しい、ありふれて、詰まらない有り様のうちにある、通り一遍の感傷を、的確に捕まえているといっていい。したがって『ひなた』という、この小説がおもしろくなっていないのは、しごく当然のことなのである。読みやすいが、しかし、読み手の目に入ってくるのは、空疎な言葉群ばかりだろう。だが、その満ちていないことが、翻って、読後に残るような、もやもやとした輪郭をつくる。

 登場人物のひとりが次のようにいっている。〈ドライブというのは不思議なもので、どちらかが話し出さないとシャッターが押されない。シャッターが押されないというのはヘンな言い方かもしれないが、とにかくどちらかが話し出さないと、ただ窓外の景色が流れてゆくだけで、いっさいの区切りというものがない〉。おそらく人生などと大層な言葉を口に出してみたところで、それは結局、シャッターが押されないドライブのようなものに他ならず、ただダラしなく流れてゆく窓外の景色を眺めるだけに過ぎない。

・その他吉田修一の作品に関する文章
 『7月24日通り』については→こちら
 『春、バーニーズで』については→こちら
 『ランドマーク』については→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(06年)
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