ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2009年12月25日
 かつて父親の愛人が述べた。「彼がね」「締まりのない顔をして眠るの」「あたしの腕の中で こうすっぽり収まって」「子供みたいで愛しくて たまらなく幸せで」「それはもう」「中毒みたいな幸福で」と。まだ幼かった日の水帆は、まさか自分がその言葉の意味を理解するときがくると思ってはいなかった。〈ずっと自分には無縁だと思ってたけど なんとなく深みにハマる人間の気持ちがわかる〉そして〈何かが崩壊する〉のだと感じる。亡くなった高校の同窓生、折口はるかが抱えていた秘密をめぐり、当時、彼女と接する機会のあった人びとの群像を、サスペンスのタッチで描き、追う、芦原妃名子の『Piece』、その3巻では、主人公であり探偵役である女子大生の水帆と、謎めいた屈託を持ったまま青年となった成海とのあいだに、はたしていったいどのような関わりがあったのか、これまで仄めかされながらもぼかされていた過去の一幕が、回想のシーンをおもにして繰り広げられることとなる。作品の性質上、あまりにもネタを割るのは避けたいので抽象的な言いになってしまうが、そこにあらわされているのはたぶん、あらかじめ庇護者としてあるような存在からはからずも欠損を与えらてしまった人間の孤独、だろう。そうした孤独を通じ、高校時代の水帆と成海は、まるでタイプは異なっているにもかかわらず、惹かれ、親密になってゆくのである。しかしながら欠損は同時に、コミュニケーションの線上で、距離が縮まるなか、翻って最大の障壁になりうる。障壁にぶつかった途端の混乱は激しく、二人の持った傷は、閉じられることなく、いやむしろひろがり、せいぜい隠すよりほかなくなるのだった。それもやむなしとしていた彼女たちが、やがて再会し、いかにして自分の、あるいは互いの欠損を回復させるのかが、おそらくは本筋に被りつつ展開されているテーマなのであって、これはもちろん、作家論的に考えるのであれば、以前の『砂時計』に相通ずるものだといえる。『砂時計』がそうであったように、『Piece』のいくらかメロドラマふうな波瀾万丈は、たしかに見え透いてはいる(ベタだとかのじつは何も語ってはいない評価でさもえらそうに見てもよいよ)。だが、主体において内面なる項がもしもあるのだとしたら、こんなにも容易く肥大するのだし、大きさのぶんマトもでかく、逃れられずにダメージを受けたところがひどく痛むのだ、という苦悩を、なるたけ実直に表現しようとしている所作が、コマ割りのダイナミクスにまで及び、ぐっとエモーショナルな運びを成立させていることは、決して否定できない。水帆の自意識に顕著なとおり、このマンガに登場する人物たちにとって過去は、べつの結果には取り替えられない苦悩として、あらわれている。繰り返しになるけれども、閉じることのない傷のようなそれを、何とかして隠そうとする自己の弁護が、暗くひずんだ欠損を、反対に強調し、認識させるかっこうとなってしまっているのである。当然、どれだけ悔いても過去をやり直すことはできない。取り繕うことはできるかもしれないが、本質的な解決にはならないのだと、大学にあがってもなお、欠損を埋められずにいた水帆の、失恋は教えている。だからこそ彼女は別れた相手を早々に諦める自分に対し、さらにはふたたび成海を目の前にした自分に対し〈目を閉じて 感情を閉じ込めて その先は? ただ ぽっかりと空白が広がってるだけじゃないのかな?〉と、問いかけたのではなかったか。ここで確認しておかなければならないのは、あくまでも『Piece』は、もはや選び直すことのかなわない過去ではなく、これからを選び取ろうとする現在を、直接の舞台にした物語だということだ。すべての回想シーンは欠損の在処を指すものでしかないだろう。そして必ずやそれは埋められる。そう信じられるだけの説得力が、幸福な未来を望む視線の先に、示されようとしている。ただし、そこへと行き着けるかどうか、少なからぬ困難が残されたまま。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
 
・その他芦原妃名子に関する文章
 『月と湖』について→こちら
 『砂時計』
  10巻について→こちら
  8巻について→こちら


posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(09年)
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