ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2009年12月21日
 爆麗音-バクレオン 6 (ヤングジャンプコミックス)

〈また…泣いているね? フロイライン… / ……苦しいのかい? その為…じゃない… / …その為じゃないんだ…フロイライン / 人は決して苦しむ為に生まれてくる訳じゃないんだよ? ヴィオレッタ…〉

〈あぁ…これは… / ……この歌は… / …自由だ…とても… / まるで風のように…〉

 いやはや『爆麗音』、まさか佐木飛朗斗(原作)と山田秋太郎(漫画)の相性がここまで良くなるとは思っていなかったし、正直、なめてはいけないものになりつつあるな、という気がする。作中に主要な人物が出揃い、それらの運命が密接に絡まり、物語のデザインに確固たる輪郭が見え出したこの6巻から、もしかしたら本編というに相応しい段階に入っているのかもしれない。じっさい、主人公である音無歩夢や、印南烈、麻生道夫、ヴィオレッタが、ようやく一つのバンドとなり、音楽で武装、巨大な世界の価値観を眼前にしながら、各々の試練や使命と相対するような展開を見せはじめている。

 しかしまあ、歩夢たちの組んだバンドの名前こそが、ずばりタイトルの爆麗音となるのだけれど、それを決定するエピソードには、佐木の諸作品にしばしば顕在する次のようなテーマ、すなわち中途半端にアメリカナイズされた日本人はそのアイデンティティをいかにして扱うべきか、をうかがうことができる。たとえば烈が、バンド名を〈漢字で行こーぜ ぜってーッ!!〉と言い〈っつーかよ“オレらのバンド”の名前をよ――……世界基準にしちまおうぜ〉と主張するのに対し、他のメンバーが意見を一致させているのは、おそらくいかなるアイデンティティも今や、グローバル化されることでしか、価値の認められないことを暗示している。ただし、それが正しく間違えていないかどうかの判断は、後々の展開によって弁証されることになるのだろう。そもそも、四人で決めたはずのバンド名は爆烈麗音なるものであったにもかかわらず、ちょっとした手違いで爆麗音の三文字に誤り改めてしまわれたように、である。

 他方で、現代において血縁や家庭がアイデンティティの助けになりうるか、という問題もそこかしこに浮上している。歩夢も烈も道夫もヴィオレッタも、あるいは彼ら以外の大勢が、寄る辺となるべき家族のすでに壊れた場所を生きている。たいがい佐木の原作しているマンガでは、登場する人物たちはみな、父母の有無は関係なしに、大人であること子供であることの垣根もなく、孤児に近しい寂しさを抱えさせられているのだが、それは『爆麗音』も同じ。ヴォーカルの面で歩夢をサポートする弥勒織顕が、自らの出自を呪って〈ボク自身“醜い一族”の中で 自分を道化の様に感じていたしネ! でも“崇高な愛”とされる自己犠牲ですら自己愛の一つにすぎないのかも知れないなら…地上の“蛋白質と塩基配列”を汚濁と判定しないのなら…“汚い人間”など決して存在しないと思うんだ!〉と述べているとおり、すべてがゼロさもなくばマイナスのなかからいかにして在るべき評価を構築するか、そのプロセスにおいて、音楽は必要とされ、生まれているのだ。そしてそれは過去にもいったように、『特攻の拓』の、あの天羽時貞が鳴らした悲劇の残響を引きずっている。

 連載時期を並行しながらも先に打ち切りを思わせるかたちで終了した『外天の夏』のアイディアが、ぼちぼちこちらへと流れ込んできているかな、と推測させるところもいくらか出てきている。若くしてパンク・ロックの権威となったジョン=ハイマンのぶっている演説などが、そう。彼は〈世界を見てみろよ?〉と言う。〈もはや人類は 旧世界の尊く偉大だが「感じられぬ者には意味を成さない」“人間の限界”に見切りをつけて 莫大な価値を無に帰そうとしているのさ…地上に残されるのは「低コスト・量産性・エコロジー」を謳い “尊く偉大なもの”に似せながらも“真逆”の収益性と「簡単便利」を誇るだろうよ…〉と。はたして〈いったいこの現実をどう取り繕えるのだろう…〉と。そうした資本制そのものに対する懐疑は、ふつう音楽マンガとジャンル視される作品には、あまりあらわれないものだろう。

 真逆であること、この世界を駆動させている価値観がじつは本質の裏をいっているのであればひっくり返して元に正すこと、このような思想の立て方は『外天の夏』で、ヤンキーや暴走族のアウトロー、アウトサイダーに託されていたものであった。が、それが『爆麗音』では、ロック・ミュージックに取り組む若者たちの姿を借り、変奏されているのであって、歩夢がバンドでつくったオリジナルの新曲を「真逆の世界」と名付けるにあたり〈この曲は題名が先に在って…ずっと前から決まってるんだ…〉といっているのは、じつに象徴的だ。

 さりとて、佐木の、ときには物語をも破綻させてしまうまでの抽象性(ポエジー)を、作画という具体のレベルでフォローする山田のすぐれた筆致を見過ごしてはなるまい。音楽マンガとしての質、ほんらい目には映らない音の出力を、どうやって紙の、平面の表現に張り付け、説得力を持たせるのかも、当然その、技術の高さによっている。すくなくとも演奏シーンのかっこうよさ、とくにレスポールのギターをぶんと振り回しながら弾きながら歩夢が発するダイナミズムはすばらしく圧倒的、ここ最近の音楽マンガの内では随一だといえる。どのようなサウンドであるかまでは必ずしも確定できないにしても、パワフルでいてヘヴィであることは間違いなく伝わってくる。またメロディアスなナンバーにあっては、それがとてもやさしく澄んだ曲調を持っていることが、実感されるほどに再現されているのである。

 バンドのプレイを前に、歩夢の妹である樹里絵は言う。〈お兄ちゃんは“弱い生き物”なんかじゃない…!! この人達は…… / この人達はそうなんだ… / 音楽で命を炸裂させる“生き物”…!!〉と。これは歩夢たちバンドの方向性のみならず、作品が辿り着こうとしている彼方をも教えているに違いない。もう少々踏み込んだ話をするのであれば、『爆麗音』のほとんどの人物が、何かしらの救済を得るための手段として、音楽を選んでいる。ただしたぶん、歩夢だけは違う。彼にとっての音楽は、手段ではなく、あくまでも目的なのであって、それを奏でること自体が魂を解放させているかのような幸福を、興奮を、その表情は有している。主人公にのみ与えられた特権性は、なるほど、ストーリーの域とはべつに、そうして描写されているのだった。同時に、山田が作画の面で果たしている貢献の大きさを思わせる。

 だいたい、と、すこし冗談めかしていうのだけれども、いや半ば真剣に、作中で重要なアクセントとなっている樹里絵のひねくれた可愛さにしたって、山田の絵にかかっている点が、かなり、だよね。大人びた彼女の幼い恋心が、そりゃあもうたいへんキュートに描かれているのはもとより、音楽への憎しみがいつしか氷解しつつあるのを微妙なタッチの変化で示しているのも、ひじょうにうまい。

 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら  
 1巻・2巻について→こちら

 『パッサカリア[Op.7]』について→こちら

・その他佐木飛朗斗に関する文章
 『外天の夏』(漫画・東直輝)
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『[R-16]』(漫画・桑原真也)12巻について→こちら

・その他山田秋太郎に関する文章
 『解錠ジャンキー・ロック』1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(09年)
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