ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2009年12月08日
 女神の鬼 14 (ヤングマガジンコミックス)

 息がしたい息がしたい息がしたい。どのようなトライブに属しているのであれ、どのようなイデオロギーに従っているのであれ、どのようなルールを信じているのであれ、何らかの抑圧を感じ、苦しめられるとき、こうした念仏を唱えることは誰にとっても不思議な行為ではないだろう。そこにはすでに社会性の芽があらわれているといってよい。だってそうだ。もしもまったく自由な個人を生きられ、対他関係下で苛烈に自己を相対化されてしまうような運命から逃れられているのであれば、ハナから息詰まる必要なぞ持たないはずではないか。対他関係のストレスを前にしたさい、ふと実感される社会性の芽を、はたして抜くのか育てるのか、これはアウトサイダーとそうではない者とを隔てる大きな分岐となってくるに違いない。田中宏というマンガ家が、『女神の鬼』の、巨大な、そして壮絶な物語のなかに描き出しているのは、おそらくその、社会性の芽をめぐる一個の仮想戦線なのであって、もちろんそれは、必ずしも不良少年にのみ限定されたテーマを負ってはいない。

 とうとう、ギッチョが狂おしいほどに憧れ、夢にまで見た、鎖国島での本格的な暮らしが、幕を開ける。最大の目的は当然、そこに巣くう鬼どもの王様になることであった。懐かしい面々、仇敵との再会、じょじょに鎖国島の全容が明かされていくうち、いま現在、王様として君臨しているのが、かつて親しんだサクラこと花山であることを知り、直接対決に向かうギッチョとアキラだったが、あまりにかけ離れた実力、緊張感の差によって一笑に付せられてしまう。そうした主人公の動向をよそに、新しい王様を決めるための鬼祭りの日が近づき、花山、そして真清率いる東側と雛石顕治率いる西側の小競り合いは激しくなりつつあった。西側は毒の粉をまき、東側の戦力を大幅に低下させようとする。じっさいその効果は著しく、東側が窮地に立たされたちょうど同じ頃、海を渡り、同士であるハンニャとマンバが、鎖国島にやって来たおかげで、ふたたび真清は活路を得る。さて、かつて懇意であった花山につくのか真清につくのか、問い質されるギッチョは、しかし〈ワシは誰の下にもつかんで‥‥!! ワシが王様になるんじゃ!!〉と、無謀にも独立を宣誓するのだった。

 以上が、14巻のだいたいのあらましである。すでに繰り広げられている鎖国島での攻防を考えるにあたって、まず前提にしておきたいのは、それが、たとえば閉鎖空間におけるサヴァイヴァルを題材にしたフィクションの類を評するとき、よく社会の縮図なる喩えが用いられるのに相応しい構造を有しているのに対し、じつは一線を引いている点である。そもそも鎖国島とは、この社会では生きていけない人間の集められた場であったことを忘れてはならない。この社会の理念に苦しめられる彼らにとっては、それがまったく機能していない世界こそが、希望になりうるのであって、だからこそ自ら進んで鎖国島に足を踏み入れたのではなかったか。たぶん、不良少年にも二種類ある。これは12巻の時点で、ギッチョと別れなければならない友人たちの姿を通じ、さんざん検証された問題であると思う。端的に述べるなら、この社会で生きていくがために不良少年になるべき種と、この社会では生きられないがために不良少年にならざるをえない種とに、分類される。前者の場合、たとえ悪に見られようとも、社会自体にその存在を許されている。だが、後者は、あくまでも悪である以上に、その存在が許されていない。治療不可能で有害な病気そのものとして扱われているのに近しい。たんに根絶されなければならない。しばしば、残酷で凶悪な犯罪者の社会復帰が問題になるのは、極端をいえば、彼らがこの社会で生きられるための条件を十分に満たしていないと見なされるせいだろう。また、そうした犯罪者の群がさまざまな出自によっているとおり、症例は、なにも不良少年という現象にかぎってあらわれるものではないだろう。

 鎖国島に渡ったギッチョが、再会を果たした人びとのなかには、意外にも不良少年のライフスタイルとは無縁そうなドングリマナコくん(通称であるにしてもすげえ名前だな)がいた。なぜ、彼みたいな真面目にしか見えないタイプが、荒々しい鬼どもの巣窟に混じっているのか、さしあたり理由は明確にされていないけれども、この14巻で、寄生族と呼ばれ、今ふうの定義で囲うならばオタクやニートの層にあてられるだろう若者たちが、鎖国島の一角を占めているのは、ひじょうに暗示的だ。おそらくそれは、不良少年とは違う作法で、常識を踏み外してしまった立場のある由を意図している。病気の顕在は、どのようなトライブに属しているのであれ、どのようなイデオロギーに従っているのであれ、どのようなルールを信じているのであれ、この社会で生きられる者とそうではない者とを分別する。そこが、後者の、すなわちこの社会では生きられないと断じられた輩の、とうとう行き着く果てが鎖国島であるならば、本質的には、大勢を包括することで多彩な精神のグラデーションを帯びながら成り立つ社会の縮図とは、違ってくる。現実を見本にしたミニチュア上のシミュレーションとはなってこない。

 しかしながら、さらに注意深くありたいのは、たとえば鎖国島を運営する松尾老人が、血気盛んな少年たちに向けて述べる〈とにかくお前らが今‥‥えー暮らしがしたけりゃ〜〜花山みとーに王様んなって好きなよーにやるか 雛石みとーに保護者にしっかり金を入れてもろォて悠々自適な生活をするかじゃ……ココは‥‥鎖国島なんじゃ〉という言葉が仄めかしているように、社会の意義を前提にした秩序からは切り離された場として用意されているにもかかわらず、そこには一つの確定的な体系が出来上がっていることである。あるいはそれを指して、この社会とは異なったロジックに支えられている社会の存在を認めるのは容易いし、鎖国島はこの社会とは決して無縁なところから出てきたわけではないと解釈することも可能になるのだが、いずれにせよ、その、新しい体系に置かれたロジックだけが、海を渡った少年たちにとって、唯一の居場所であり、よすがとなるのだった。こう考えるとき、この社会で生きられる資格を持っていないがゆえに鬼と忌まれた彼らのなかにも、社会性の芽を見つけることができるかもしれない。しかるに対他関係下の苛烈な相対化は、誰が王様に相応しいかの、激しい争奪戦をもたらす。

 そしてついに、どうすれば王様になれるのか、鬼祭りと名付けられた絶対のルールが明るみになるわけだが、それは、真清が〈そんなモン わざわざ説明するほどのコトもないわい‥‥単純明快‥‥〉というとおり、たいへんシンプルなものであった。かくして、鬼祭りの概要を聞かされたギッチョが〈ぜっ…‥全員倒したりとか‥‥戦争みとーなんとかせんで えーん!? そんだけで……………たった そんだけで王様に………なれるんッ‥‥!!?〉と驚くのに対して、真清が〈まァ‥‥そーゆーのもなくはないんじゃが……それだと結局 全員が死んでしまうけぇのォ‥‥数年かけてでき上がったルールなんじゃ……〉というふうに答えているのは、ある意味で、鎖国島の少年たちが持った社会性の芽を、あらためて教えているといえる。定められた目的を達成し、頂点に立つことは、潜在的にルールの遵守と同義にならざるをえない。けれども、鬼祭りのシンプルな鉄則を知り、火がつき、いきおい独立を宣誓したギッチョに、東側に属する北丸薫が〈たとえお前が……鬼祭りで女神岩の札を取って王になれたとしても‥‥一年もの間 王の座を守れるか!? 王は法で守られとるぅ言ぅーたって 西側の連中やら‥‥もちろんワシらだって 一年中 お前の首を狙うんど!! 王っちゅーのはのォ‥‥それを撥ね除けるほどの力と………器を持ったヤツがなるんじゃッ!!〉と忠告しているあたりに、きっと、鎖国島の、鬼祭りの、王様の、物語のはじまりの時点であらかじめアナウンスされていたギッチョの絶望の、真相は含まされているのだと思う。

 13巻について→こちら
 11巻について→こちら
 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 8巻について→こちら
 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 1巻と2巻について→こちら

 『KIPPO』1話目について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(09年)
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