ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年02月19日
 アムネジア

 『アクアリウムの夜』の著者による15年ぶりの新作ということで、一部で注目(なのかな)の、稲生平太郎の『アムネジア』であるけれども、これがじつに読ませる、というか、読まされるといったほうが的確か。率直に、物語(の内部)に引き込まれたという有り体の感想を述べることこそが、あるいは作品の本質をもっとも正確に捉まえるのかもしれない。80年代初頭、大阪、ちいさな編集プロダクションに勤める〈僕〉は、たまたま広げた新聞のなかに、そのとき携わっていた仕事との奇妙な関連を発見する。〈僕には何の関係もないことなのだから。こんなつまらないことが気にかかるなんて、どうかしているのかもしれない〉と思いながらも、しかし、なぜかそのことを調べられずにはいられない。やがて、見知らぬ男の死が、どうしてだろう、自分のアイデンティティと、深く、どこかで結びついている、そんな感じもしてくるのであった。

 はっきりといえば、物語そのものに、腑に落ちる、そのような読後を抱かせるための着地点は用意されていない。だが、遍在するマテリアルのすべてが、けっして作者の思いつきで配置されたわけではなくて、もしかすると小説のうちに何かしら筋のとおったロジックが作用しているのではないか、と思わされるがゆえに、精密な読解への意欲が促される。それというのは、結局のところ、構造上の問題をとって考えるのであれば、語り手の水準が、たとえばメタリアル・フィクションとかリアル・フィクションなどと名指される今様の小説群においては、どこに位置するのか不明瞭であることにより、読み手に都合のいい感情移入を誘うのとは違い、ここでは、時系列のいちばん最後もしくは物語の外部にあることが明示されているために、小説の全編は、語り手の恣意的ないし作者の自覚的なコントロール下に置かれている、つまり、ある種の計算が働いているのではないか、そういった思いなしが、行間の未知を埋め合わせようとする、それこそ探究心に近しい動機付けを読み手の側に発生させるからであろう。

 いや、しかし、じっさいこの『アムネジア』という作品の総体を、ロジックで処理できるかどうかというのは、本当のところ不明である。細部を取り出せば、いくらでもこじつけのできる気がしないでもないが、それを行っている当の本人、つまり僕自身が説得されないという困った状況が導き出されてしまう。とはいえ、べつに謎解き云々について述べたいわけではない。そうではなくて、ここで、読み手のうちに喚起された、物語の内部に整合性を求めようとする欲望は、作中において〈僕〉を動かしているものとじつは相似のようにも思える、ということである。

 そのことが結果として、明快な解答の示されない、超然としたカタルシスがもたらされるわけではない、この小説に、読み終えたとき、猛烈な吸引力を備えさせる。〈僕〉は次のように書いている。〈たとえ僕の生が物語であるとしても、次の物語が書かれることはない。前の物語が書かれたこともない。その意味では、僕たちは、かみのけ座へと旅立った少年とまったく同じように、ひとつの物語のなかに封じ込まれている〉。だが、その物語は、テクストとして開かれることで、外部へと繋がる。一個の完結は、しかし、多くの疑問を残す。もしかすると、それらの連鎖が作りうるのかもしれない〈本当の物語〉があるとしたならば、知りたがる。読み手であるところの僕にはまるで、そうした小説のつくりをこそ、作中に登場する〈ほとんど見かけ上は永久機関といえなくもない〉発電機が、暗示しているかのように感じられたのだった。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(06年)
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