ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2004年12月18日
 基本的に僕は、女の子が虐げられているシーンは苦手な人なので、この巻は読むのが非常に辛かった。まあ、それが作者の狙いというのはあるかもしれない。ないかもしれない。ただのエロなのかもしれない。いずれにせよ、ヒーローとは何か?正義とは何か?という問いかけが延々と続くのが『ZETMAN』というマンガである。桂正和の初期の作品である『ウィングマン』が仮面ライダーや戦隊ものをモチーフにしていたのに対して、『ZETMAN』はバットマンなどのアメコミを参照項に置いているという比較はできる。前者は、ヒーローとは正義に奉仕するものである、という前提の上に組み立てられているわけだが、後者では、ヒーローを駆動させるのは個人的な復讐であったり社会的なモラルであったりする。

 すこし話は変わるが、平成(あるいは90年代)以降の日本のヒーローは、従順に正義に従うということができなくなってしまっている。共通言語的な正義では人類はけっして幸せにならない、という認識が普及したためである。要するに、ウルトラマンが怪獣を倒しても、そのたびにビルが倒壊していたら堪らないという、以前だったら笑い話であったことが、深刻な問題として捉えられてしまうようになったのだ。たとえば最近の仮面ライダー・シリーズでは、『仮面ライダー555』ぐらいになると、ライダーの存在に企業の利潤が絡んできてしまったりする。それをリアルだと思う阿呆はいないとは思うが、結局、行き着くのは「個」か「公」か、という小林よしのりのゴーマニズムのような場所でしかないのが、僕なんかはとても退屈だ。

 僕は、ヒーローが正義とは何か?みたいなことを考え出したら、その表現は終わりである、と思っている。なぜならばヒーローや正義というのは、ずばり他者からの承認によって得られる他ないからだ。もちろん90年代においては、ヒーローとは何か?正義とは何か?を悩むことは有効であった。その良い例が映画『バットマン・リターンズ』だろう。しかし、あそこでバットマンとペンギンを隔てているものは、他者からの承認でしかない。最近では『スパイダーマン』があるが、『2』のなかでもっとも泣けてしまうのが電車の場面で、あの感動がどこからくるかといえば、スパイダーマンという存在が大勢によってヒーローであると認められるところからやってきている。そういったことを踏まえて、平成ライダー・シリーズのなかで唯一『仮面ライダー・クウガ』が優れているのは、当初はアンノウン(未確認)であったものがヒーローや正義として人々に認識されてゆく、その過程を追ったものだったからだ。主人公であった五代雄介は、表層的には、ヒーローとは何か?正義とは何か?といったことを悩まない、その象徴があの笑顔だといえる。

 他者からの承認を必要としない正義は何になるかといえば「俺イズム」のようなものである。俺的に正しい、というやつである。これはシステムに対するカウンターとして機能する場合には、たしかにヒーローたりうる資質であるが、しかし、現状を考えみるに、そういった状況が用意されているからこそ大勢がそういうことを言い出すのであって、結局はシステムの奴隷でしかないのだから、もちろん、そこには正義など存在しない。

 話を『ZETMAN』に戻す。現段階では『ZETMAN』にはふたりの主人公がいるように見える。ジンとコウガである。この巻では、前巻に引き続きコウガ・パートが繰り広げられている。コウガは、誰もが羨む大財閥の息子でありグッド・ルッキンでありモテモテさんである。その彼が、何者かに仕掛けられた罠のなかで、ヒーローとは何か?正義とは何か?という問題を突きつけられているのが、この巻である。僕は、ヒーローが正義とは何か?みたいなことを考え出したら、その表現は終わりである、といった。では『ZETMAN』は駄目なのかといえば、そんなことはない。なぜならばコウガは、この段階においては、いまだヒーローならざるものだからである。つまり起点が違う。このあとどのように物語は進んでいくのかはわからないが、現時点での『ZETMAN』の世界には、ヒーローも正義も存在していない、がゆえに逆に、ヒーローとは何か?正義とは何か?といった問題を問わざるをえないのである。
 
 ほかにもいろいろとあるのだが、長くなったのであとのことは次巻が出たとき以降、って次出るの来年の夏だよ。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ。
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