ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2009年11月11日
 湾岸MIDNIGHT C1ランナー 1 (ヤングマガジンコミックス)

 ループ構造のリアリズム下で生をいかに描くか。こうした問題は、『ヤングマガジン』誌の長期連載作品において、とくに顕著化されている。きうちかずひろの『ビー・バップ・ハイスクール』が、連載中断というかたちでしかピリオドを打てなかったことは、深く考えられるべきであった。近年、その先の段階へとシフトしていったのは、村田ひろゆきの『バレーボーイズ』だが、しげの秀一の『頭文字D』や楠みちはるの『湾岸MIDNIGHT(ミッドナイト)』は、今もなおループ構造のリアリズムを引き受けつつ、物語を発展させているのである。

 楠みちはるの『湾岸MIDNIGHT』が、現在の『C1ランナー』にタイトルを変更したばかりの頃、掲載誌の近況コメントで作者はたしか、あまり気にしないでくれ、というようなことを述べていたけれど、いやもちろん、両者がワン・セットを為している以上、それは真であるだろうが、しかし、こうして1巻の表記を付せながら、つまりは前者の41巻分とは別個の枠をとったうえで、後者がリリースされてしまったからには、いくらかの意味づけを行うことも可能だと思う。

 きわめて簡略するのであれば、『湾岸MIDNIGHT』というマンガは、首都高をぐるぐる回る、回り続ける、文字どおり、ループする内容を持った作品であった。長いストーリーのなかに、作中人物たちの入れ替えはあるものの、主人公のアキオとライヴァルのブラックバードだけは、その円環の外に脱することはできない。円環の内に止まることを自らの宿命に課してさえいる。また、カメラマンやライターといった職業が、姿を変え、繰り返し、アキオたちの前にあらわれる点に、(ネタの使い回しといってもよいが)ある種の反復性をうかがうこともできる。『C1ランナー』をべつに、『湾岸MIDNIGHT』を単体としてとった場合、現時点における最終のエピソードでは、主人公を長いあいだ見守ってきたヒロインのレイナまでもが、円環からよそに出て行ってしまう。反対に、アキオとブラックバードは、たとえ他の誰がいなくなろうとも、円環のなかを生きてゆこうとする意志を、さらに強めるのだった。そしていったんの幕が閉じられる。当然、ループ化した世界の外部が描かれることはない。

 その、アキオとブラックバードが、(すくなくとも今の段階では)まったく登場してこないところに、『湾岸MIDNIGHT』と『C1ランナー』の大きな違いはあるだろう。『C1ランナー』もまた、C1(環状線)がキーワードとなっているとおり、首都高をぐるぐると回る、回り続ける人々の物語であることが示唆されている。舞台装置を等しくしているかぎり、表面上は、たんに主人公の存在をリセットしただけ、いくらかのリニューアルを行ったにすぎない、そう考えるのがふつうである。

 ここで注意しなければならないのは、『C1ランナー』の、主人公と定めてしまうのは難しいけれども、間違いなく中核を担っている萩島という青年の役だ。萩島は、『湾岸MIDNIGHT』における暫定的な終盤でも、重要な扱いを受けていた人物だった。自動車雑誌の編集者として活躍する夢を諦め、異業種で営業の仕事をしていた彼が、たまさかアキオと出会い、ふたたび情熱を得、フリーランスのライターにカムバックするというのが、『湾岸MIDNIGHT』に描かれていたパートだが、『C1ランナー』では、かつての有名自動車誌「GTカーズ」を復刊させるため、まずはWEB上に「GTカーズ」の名を借りたページを開いたところ、やり手の自動車評論家である荒井に引っぱられ、さまざまな人物と渡り合うことになる。

 この国のサブ・カルチャー史を紐解くまでもなく、ループ構造のリアリズムが、とくに機能を発揮するのは、それがモラトリアムを代替しているときだろう。『湾岸MIDNIGHT』の円環はおそらく、主人公であるアキオはもとより、作中人物たちのモラトリアムと相似であるに違いない。だからこそ彼らは、公道バトルという、一般の通念には還元されない情熱に身を費やし、あたかもそれが通過儀礼であったかのごとく、次第に社会化されるべきを意識しはじめ、首都高を去っていくと、二度とは戻ってこれない。アキオとブラックバードだけが、そうしたことの例外を生きていることはすでに述べたが、例外を生きているがゆえに、他の人々から憧憬の眼差しを向けられる、いわばモラトリアムの象徴としていつまでも輝いていられる。

 『C1ランナー』に先立って『湾岸MIDNIGHT』に登場した萩島も、やはり、アキオたちとの接触を通じ、モラトリアムを再体験していた。会社を辞め、自分がほんとうにしたいことは何なのか、首都高をぐるぐる回り、走り、問い、答えようとする。要するに、一般の通念から一時的な離脱を果たしていたのである。繰り返しになるけれども、『湾岸MIDNIGHT』にとって、首都高とは、そのような、モラトリアムを代替する空間、場所としてあらわれている。たとえばレイナが、プロのモデルとして大成するため、言い換えるなら、社会化された自分を獲得するのに海外への旅立ちを必要としなければならなかったのは、本質的に、首都高というモラトリアムの磁場より遠く逸れていくことを意味していた。

 同じく萩島が、紆余曲折を経、フリーランスのライターを志すことで、社会化された自分を進んでいくのであれば、『湾岸MIDNIGHT』が有している作品の構造上、首都高の円環を出て行かなければならない。だが、結局のところ、彼の選びとった自立は、それが自動車のチューニングと深く関わっているかぎり、表象のレベルではなく、まさしく現実のレベルで、首都高に立ち返らざるをえない。たぶん『C1ランナー』が、必ずしも『湾岸MIDNIGHT』ではないことの最大の理由は、そこにある。

 さしあたり荻島を中心に考えるなら、『C1ランナー』のプロットは、雑誌「GTカーズ」の復刊という、じつに社会的な課題を指標とし、立てられている。これは、いわく言い難い欲望に魅入られた人々が、眼差しを交わしながら、すれ違い、各々自己の立ち位置を確認する姿を描いた『湾岸MIDNIGHT』にはなかったものだろう。たしかに「悪魔のZ」を媒介とすることで、すれ違う人々のあいだにも、ある種のコミュニティが出来上がってはいたが、それは決して一般の通念では認められないものであった。アウトローの密約にも似た淫靡さを孕み、あくまでも反社会的な行為の共犯者だとされている。

 そうした『湾岸MIDNIGHT』におけるコミュニティのありように対し、『C1ランナー』のそれは、萩島が取り組んでいる「GTカーズ」の復刊も含め、社会の規範をベースにすることで成り立っている。このことは、『湾岸MIDNIGHT』でアキオをフォローしていたチューナー北見と『C1ランナー』で萩島をサポートする「スピードファクトリー RGO」の、双方のスタンスの違いにも十分見て取れる。

 さて。『C1ランナー』のストーリーは、もう一人の主人公とでもすべき青年ノブの登場によって、直接の幕を開いている。自車であるFD型RX-7に「RGO」のニセのステッカーを貼り、その速さからC1で注目を集めはじめた彼に、「RGO」本来の面子をかけて、萩島が挑んでゆくのだけれども、そこに示されているのは、すなわちブランド(看板)をめぐる闘争にほかならない。いうまでもなくブランドは、合法的であるとき、衆目に許された価値を持つ。首都高のルールを無視し、あっけらかんと最速を気どるノブを、萩島がくだそうとするのは、それがブランドの傷に深く関わっているためだ。

 結果、ノブは、萩島や「RGO」のスタッフであるリカコと行動をともにすることになるのだが、今度は彼の存在を中心にして『C1ランナー』という作品を考えてみるなら、やはりこれも『湾岸MIDNIGHT』がそうであったように、モラトリアムの内側を描いているのだという気がしてくる。首都高の円環をぐるぐる回るノブの前に、さまざまな人物が、入れ替わり立ち替わり、姿をあらわしては去ってゆく。そうして彼はたしかに、少しずつ成長を遂げるだろう。しかし、物語上の仕組みにより、円環の外側へ足を踏み出す必要は、ひとまず保留されてしまっている。この意味において、ループ構造のリアリズムは、『C1ランナー』にも生きているといえる。が、テーマの位相に大きな変移がある以上、これから先のストーリーで確認されるべきなのは、その質になってくるのである。

 『湾岸MIDNIGHT』40巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(09年)
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