ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年02月11日
 『群像』3月号掲載の中篇。ふ。はっ。くっだらねえ。でも嫌いじゃあない。いや、むしろ好きである。前田司郎は、以前読んだ『愛でもない青春でもない旅立たない』が、ちょっと残念な感じだったが、この『恋愛の解体と北区の滅亡』は、いいんじゃないだろうか。とりあえず愉快だった。こういう作品のつくりに、正確な名称があるのかどうかは知らないけれども、ときおり舞城王太郎がやるのに近しい、が標準語に徹底した、逡巡を繰り返す、口語体のモノローグによって、小説内の時間は進む。あるいは、批評意識をまったく排除した阿部和重というか、笑劇ふうの一人芝居であるかのような、そう、たとえばこんな体である。〈オレはさっきから愛の存在を証明しようとしていたんだっけ? 違うだろ、今日の目的は憎しみを殺意にまで育てようっていうのだったろう。もうどうでも良くなっているのではないか。駄目だそんなんじゃ。ちゃんと憎しまないと。肉島ナイト。凄いエロい事が行われそうだ。瀬戸内海の小さな島、肉島。そこで行われる酒池肉林のパーティー〉。

 語り手であるところの〈オレ〉は、〈俺〉であったり〈僕〉であったり、その表記はつねに揺れ続けるのだが、彼は一貫して、ひどく形而上的なことを、すごく下世話な頭でもって思案している。読み手は、そのプロセスを追いかけるかっこうになる。とはいっても、得るものは少ない。こいつ、馬鹿だろ、と思うぐらいではないか。そうではなくて、文体のグルーヴなのだといえば、まあ、そうなんだろう。ストーリーはある、あることにはあるけれども、その筋を取り出すのは、難しい。ちがう、そうじゃないな。ひとりの若い男が世界の滅亡がかかった夜に風俗に行く、たったそれだけの話である。その間に膨大な思弁が詰め込まれている。しかし証されるのは、ほんとう人間ってしょうもないよね、という程度のことだ。それにしたって、あれだけ悩んだサディズムとマゾヒズムの件はどうなったんですか、と尋ねたい。

 ひとまず中身を読み終えて、『恋愛の解体と北区の滅亡』という題名を、僕なりに解釈するのであれば、次のようになる。おそらく「恋愛の解体」は他者にかかっており、対して「北区の滅亡」は他者ならざるもの、つまり異者に、である。他者は主体に干渉しうるが、異者はそうではない、ただ鑑賞の対象として、顕在化しうるのみである。だから前者に関して、主体の内なる意識は、「解体」を思わせる、作中の言葉でいうと〈この嫌悪の表皮を剥ぎ取った下には歓喜があるかもしれぬ〉などと左右され、後者に関しては、〈がっかりだ〉の一言をもって、やがて無関心に達する、そのため〈もう今日で僕は終わりかもしれないと思っていても、死ぬ気がしない〉、要するに、今そこにある「滅亡」の可能性にさえも、真面目にコミットする気が起らないのだ。両者は、しかし明確な区分をもって主体の行動を引き裂いているのではなくて、ありきたりな日常のなかに、違和感なく融け込み、まるで自然な風景と化している。すくなくとも、そう感じている。

 いうなれば、敏感なふりをして、じつは鈍いのである。として、それは、ある意味で、怠惰な生を延長させながらも、自らの切実さだけは高級だとしたい、そういう精神の有り様、または今日におけるリアリティの、見立てだろう。が、深刻さのかけらもなく、いっさいの阿呆丸出しに書かれているところが、とてもとても愉快で、よかった。

 『愛でもない青春でもない旅立たない』については→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(1) | 読書(06年)
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「恋愛の解体と北区の滅亡」 前田司郎 2007-014
Excerpt: 意外な方面で評判の「恋愛の解体と北区の滅亡」を読了しました。 このタイトル、何か暗喩があるのかしらんと読みすすめておりましたが、ストレートに「恋愛の解体」と「北区の滅亡」の話で御座いました。 ..
Weblog: 流石奇屋??書評の間
Tracked: 2007-01-27 00:50