ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2009年10月22日
 足利アナーキー 1 (ヤングチャンピオンコミックス)

 さあ、くず人間どもによる最高潮に浮ついたエンターテイメントの幕開けだよ。はっきりいって、それ以上のことは何も繰り広げられないであろう。だが、そこがいいんじゃないか、と思う。ついに新進気鋭、吉沢潤一、『足利アナーキー』の1巻が出た。ふたたび述べるが、ここには教訓もメッセージもタメになる旨はいっさい描かれていない。衝き動かされる欲求にわかりやすくアプローチしているだけだ。

 近年、ヤンキー・マンガのジャンルに属するいくらかの作品がやたらに退屈なのは、不良少年にも内面があるという、ちょっと考えれば当然のようなモチーフを引っ張ってくるのはいいが、それを確認しておしまい、物語のレベルにはっとさせられるところがなく、遺伝や環境に原因を転嫁し、生き様を問うこともない、せいぜいが独創性のないポエムをのたまうのみ、ほらこんなにもシリアスなお話なんですよ、といった身振り手振りを示しているにすぎない、と感じられるためである。もちろん、こうした陥穽を逃れている作品は何個もあるし、作家は何人もいる。けれども、それらがかえって孤高に見えてしまうあたりに、一種の難儀さを覚える。

 言い換えるなら、他のフィクションがそうであるのと同様、ヤンキー・マンガのイディオムも、90年代後半よりこちら、個人の内面、いわばメンタルの問題に従事してきたのであったが、00年代の終わりになって、そこから一気に、アクションの肉感、フィジカルな能動へと振り切れていく方向で、『足利アナーキー』はブレイクスルーを描いている。せっかくの青春なのに退屈だからギャングになっちゃおう、とりあえずギャングになったのだったらキングを目指しちゃおう、作品の全体を貫いているのは、1+1が2となるのに等しく、明解な論理である。

 栃木県、足利市、〈中途半端に栄えている中途半端な田舎であり…(略)中途半端な不良や阿婆擦れや田んぼの天国…つまりどこにでもある田舎…〉で、中学3年の頃より高校3年の17歳になった現在までずっと、県内最大のヤクザ、刈屋会にスカウトされ続け、「栃木の鬼神」と呼ばれるハルキ、そして彼の中学時代のツレで、各々が名うての喧嘩屋であるカザマサ、タカシ、ヒカルらの首を狙い、地元の不良少年たちが次々と挑みかかってくるのは、もはや日常茶飯事だが、しかしどうせ相手をしなければならないなら、いっそのこと先回りしてぜんぶ潰してしまおう、と、たった4人でギャングの根城に乗り込んでゆくのだった。

 繰り返しになるけれども、こうした筋書き以上のことは何も描かれていないことが、『足利アナーキー』の内容に、ハイな爽快さをもたらしている。作中人物たちにどのような内面が備わっているのかが重要なのではない。そうではなくて、作中人物たちがいかなる行動を起こしたかに焦点は向けられており、その顛末は、殴る蹴るのヴァイオレンスにまったく置き換えられているのである。一般的には、ほとんど褒められないアトラクションばかり展開されるが、しばしば貴ばれる若さゆえのフル・スロットルとは、要するに、これだけ傍迷惑なうえ、頭の悪いものなのであって、そこまで理解しておけば、文句のつけようはない。

 会話一つとってもすばらしくローIQなのは、ギャグとして可笑しいというより、作品のテンションをキープするための作法だろう。そういったセリフのほか、格闘技に関する蘊蓄込みのナレーションが多用されており、おそらくは森恒二の『ホーリーランド』を参照し、経由しているではないか、と思われるのだけれど、その饒舌さは必ずしも作中人物の内面をフォローしていない。状況解説に、文字どおり、因果を含めながら、多少の無理やりをねじ伏せるのに、一役買っている。ここで説かれているハウ・トゥの真偽、実用性は問題ではない。読み手の意識が、アウトローに屈託を見てしまわないための方便にほかならないからだ。

 すくなくともこの1巻の段階では、どこからどこまでがまじなのか冗談なのか、判断しかねるが、初期衝動とでもいうべきアグレッシヴさの、ダイレクトに照射されているところが、最大の魅力となっている。抜群のはったり。

 1話目について→こちら

・その他吉沢潤一に関する文章
 「ボーイミーツガール」について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(09年)
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