ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年02月10日
 ナンバMG5 3 (3)

 いま、この時代にヤンキー・マンガ以外の何ものでもない『ナンバMG5』が、なんでどうしてこんなにおもしろいのか、というのを考えるけれども、ひとつには作者である小沢としおが、これはクリシェであると自覚しながら、あくまでもクリシェとして描いている点にあるのかな、とは思う。そうすることで、作者が描こうとするものと、じっさいに描かれているものとのあいだに、ノイズの混じることがごく少なめになり、作品は想定外の歪さではなくて、しごく健全なかたちを、その魅力としてまとうことになるのではないか。もちろん、それは言い換えれば、お約束というパターンにまとまっている、ということでもあるのだが、意識して定型を作り上げることと、意識せずに定型に陥ってしまうこととでは、確実に、充実の濃度が違う。『ナンバMG5』は、こういうふうに進んでいけばいいな、といった読み手の期待に、しっかりと応えることで、その内容を膨らませている。

 そういえば、つい最近、この作者の以前の作品である『ダンコン』と『チェリー』を読み返したのだった。『ダンコン』と『チェリー』というのも、いかにもクリシェであるかのような題名だが、まあ、それはそれとして。そこで気づいたことがあるのだが、小沢としおというマンガ家は、もちろん『フジケン』や『いちばん』を含めてもいいのだが、一貫して、ヤンキーになることを回避しようとする主人公を取り扱っているのかもしれない。『ダンコン』では、ヤンキーになることの代替策として応援団が、『チェリー』では、陸上と恋愛がクローズ・アップされている。そして『ナンバMG5』では、それこそ、普通(ごく一般的な、ステレオタイプな、という意味で)の高校生として青春を過ごすことを、主人公は目指しているのである。しかし普通とは何か。本当のところ、これはなかなか難しい問いではあるのだけれども、筋金入りのヤンキー一家で育った人間が、できうるかぎりケンカに関わらず、勉強や部活(そして恋愛)に励むことを「普通」と設定することで、そのような問いにストーリーが停滞させられることを、未然に、防いでいる。

 さて、3巻目である。市松高1年最強の男とされる伍代に、二重生活の秘密を知られてしまい、あわやピンチの主人公難破剛であったが、伍代が思いのほか良い奴であったため、またしばらくのあいだ、普通の高校生活を送れることになった。そういったことの礼を兼ね、剛は伍代を自宅に招待する。そこで伍代が目にするのは、いまどき時代遅れなヤンキー以外の何ものでもない、難破一家の実像であった。ははは。このエピソード、すごく好き。伍代がヤンキーというか不良を気取るのは、要するに、家庭の不和みたいなものが原因なんだけれど、それが難破一家のアットホームさ加減との対比になっているわけだ。つまり、伍代の造型は現代的で、難破一家のうちにある剛の造型は前時代的になっている。だから、たぶん読み手の多くが感情移入しやすいのは伍代であろう。というか、僕はそうである。ここで剛が、家の外に出て、学校生活にあってもヤンキーであったならば、結局のところ、過去はよかった的なノスタルジーに回収されてしまうのだが、そうじゃなくて、脱ヤンキーを目指している点が、今という時代に繋がるブリッジとして機能する、そういうコメディに作品を着地させている。
 ちゃんと笑える。
 これまでのところ、失速することなく、おもしろい。
  
 1巻についての文章→こちら
 第1話についての文章→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(06年)
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