端的にいって、前後編のスタイルでまとめられた「黄泉の真実」はすばらしいんじゃないか、と思う。いしかわえみの『絶叫学級』は、学校怪談的なエピソードをオムニバスの形式で送るマンガであるが、この3巻に入っている「黄泉の真実」に関しては、ホラーの要素はきわめて薄く、かなりダイレクトに、いじめ、の問題を扱っている。
その篇の主人公はとある場面でこう思う、〈…そっか どこにいっても変わらないんだ そっち側の人間か こっち側の人間か いじめのない世界なんて…どこにもないんだ だったら だったら〉どうすべきか、作者なりに考え、一個の答えを物語にあてている。突然、クラスメイトたちからいじめの対象にされてしまった渚は、両親や教師にも頼れず、理不尽な仕打ちに一人苦しみ、〈お願いだから神様…!! こんな地獄から私を逃がしてよ…〉と嘆くしかない。はたして、逃げ込んだ資料室で昔の卒業アルバムを見つけたことは、偶然だったのか。知らずのうち、彼女は、その卒業アルバムの時代を「まこと」という別人として過ごすこととなる。最初は、自分がいじめに遭っていないことに感激するまこと(渚)であったが、しかし決していじめそのもののない世界があらわれたわけではなかった。彼女のかわりに友人の優美が、クラスメイトたちから理不尽な暴力のマトにされていたのだ。それを見、実感されるのが、先に引いた〈…そっか どこにいっても変わらないんだ そっち側の人間か こっち側の人間か いじめのない世界なんて…どこにもないんだ〉という事実である。
おそらく、一定の文化を持った社会においては、どれだけ時代がくだり、生活の様式が変わろうが、子供だけのコミュニティ、ネットワークは存在し続ける。こうした観点から、どうしていじめはなくならないのか、と通り一遍なだけで無限に解消されない疑問を再生産するのではなく、必然的に発生するいじめに対してどう向き合うべきか、あくまでも実現可能な態度のかたちで問うているのが、「黄泉の真実」のすぐれている点にほかならない。
繰り返しになるけれども、平然といじめを行うクラスメイトたちが、残酷にも笑う印象に、まこと(渚)は〈…そっか どこにいっても変わらないんだ そっち側の人間か こっち側の人間か いじめのない世界なんて…どこにもないんだ〉と察する。〈だったら だったら〉どうすればいいのか。〈あんたたちの仲間になんか死んでもならない…!!〉こう言い、いじめに参加することへ、絶対の拒否を告げる。この場面はとてもつよい意思表示として読み手の心を打つだろう。さらにそれをとりあえずの一歩とし、「黄泉の真実」の論旨は展開、可能性を求めようとする心に、ちいさな灯りをともしながら、閉じられてゆく。いじめ、という病理の存在を認めないのではない。認めつつ、まだ拾うに値する希望のあることが信じられているところに、感動させられてしまう。
ところで「黄泉の真実」のタイトルにある「黄泉」とは、『絶叫学級』全体のナビゲーター役をつとめる少女の名前である。そして「黄泉の真実」の優美こそが、黄泉その人であるとあかされている。いじめに遭いながらも、毅然とした態度を貫いた優美が、まこと(渚)と同じく〈この世界に本当に…「いじめる」か「いじめられる」か 2つしか道がないんだったら…〉という問いを前にして〈私は迷わずこの道を選ぶ〉と、最終的にとった行動は、たいへんショッキングなものだ。自殺よりも壮絶な復讐だといえる。
そしてそのことを踏まえるならば、黄泉がなぜ、『絶叫学級』の各話で、グロテスクな顛末を眺め、不敵な微笑みを浮かべているのか、一つの推測が立てられる気がしてくる。『絶叫学級』に描かれている惨劇の多くは、利己的な人間が他をかえりみなかったばかりに恨みや憎しみの連鎖反応にはまってしまう、残念な結果によって成立している。「黄泉の真実」のなかで、優美の選んだ答えが、自分自身を犠牲にした殲滅戦であったとおり、利己的な人間の一切排除が、たぶん、黄泉の願いなのだろう。その願いが叶えつつあることに、彼女が微笑んでいるのだとしたら。あるいはそれを必ずしも肯定しないがために、「黄泉の真実」のような、オルタナティヴな力学の示された内容を、ここでいったん持ってくる必要があったのかもしれない。
2巻について→こちら
1巻について→こちら
『自殺ヘルパー』(原作・吉成郁子)について→こちら
ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2009年10月16日
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好きです。なんか、、、。
読んで見ました。
絶叫学級では、
一番好きですよ。