ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年02月09日
 中上健次未収録対論集成

 6800円(税別)もしやがるので、正直なところ手を出そうかどうか迷った『中上健次[未収録]対論集成』であるけれども、しかし誘惑には勝てずに、けっきょく買ってしまった。ページを開けば、けっこうなボリュームであるが、こういうのはインタビューといっしょで、会話のスピードに乗れば、ひととおり読み通すのはそれほど難ではない。また80年代を中心とした文学のシーンを振り返る、そういうための資料と捉まえれば、興味深い箇所がいくつもあった。たとえば吉本隆明が『遺書』のなかで、中上はいずれ大谷崎のようになりえたかもしれないが、インテリたちと付き合い過ぎた、みたいなことをいっていたが、ここに収められた中上と吉本の対談「文学と現在」(83年)を読むと、その真意のようなものがよくわかる。要するに、知識階層と「大衆」の問題に還元されるのである。吉本がいうインテリたちとは、柄谷行人などのことで、中上が柄谷(や浅田彰や蓮實重彦)のことを褒めれば褒めるだけ、無下にあしらう吉本の応対に、あはは、となる。いや、その柄谷行人も、なかなか愉快な人である。中上と柄谷、中野孝次、秋山駿による「戦後文学の「内部」と「外部」」(85年)は、たぶん小谷野敦がどこか論争に関する文章で触れていた鼎談だと思うが、そこでの柄谷の、先行する世代である中野や秋山に対する挑発的な態度は、じつにスリリングで、中野が〈あなたの使うそのテクノロジーって言葉はどういうことなんだ。ちょっと言ってみてくれないか〉と尋ねれば、柄谷は〈もう言う気しない〉と返すあたり、その血気盛んなところに、やはり、あはは、となる。中上と柄谷そして川村二郎「第七十三回 創作合評」(82年)では、高橋源一郎の『さようなら、ギャングたち』が取り上げられている。三者の微妙な評価の仕方が、逆説的に、『さようなら、ギャングたち』という小説の特殊性を浮き彫りにしている気がした。それはおそらく時代性に基づいている。今の時代ならば、こういうふうには言わないだろう、ということを言っている。個人的には、宮本輝を呼んでの「物語の復権」(84年)と、筒井康隆との「膨張する境界」(91年)のふたつが、とくにおもしろかった。前者では、物語にまつわる抽象性が具体的にどこからやってきているのかが宗教と「路地」の問題を絡めながら、語られている。後者では、当時の湾岸戦争をひとつのトピックに、おそらくは小説家が創作に向かうさいの批評意識が、問われている。話しぶりは浅はかだが、機知に富んだ内容となっていて、こういうことを考えている人たちの書く作品は、そりゃあおもしろいはずだよ、と思う。この『中上健次[未収録]対論集成』を、一冊の本としてみれば、たくさんの声が、雑多な話題を掘り下げている、複数人による会話では、中上が中心にいないこともある、しかし、ただの寄せ集めではなくて、たしかにどこかに一本の明確な筋が通っているのを感じさせる。そうして現れているものこそが、もしかすると中上健次という人の、人柄、カリスマ性であったのかもしれない。ただ、読み手であるところの僕はといえば、そういったキャラクターよりもずっと、その書かれたもののほうを愛するな。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(06年)
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