ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年02月08日
 『新潮』3月号掲載の短編。伊井直行「ヌード・マン・ウォーキング」は、大まかにいうと、細川という中年男性と彼が抱えるとある悪癖との関わりを描く。悪癖とは次のようなものである。〈細川は露出狂ではないが、一糸まとわない裸で外を歩きたいという強い欲望を持っている。時々そうする〉。もちろんのように、小説の題名はそのことにかけられている。が、そうした行為を、一過性のトピックとして扱うのではなくて、長いスパンの日常に融け込ませているあたりが、おそらくは主題に結びつく部分であろう。細川は独身ではない、妻があり、ふたりの子がいる。けれども当然、自分の秘密は打ち明けられない。かくして、家族の一部であること、その責任が、彼にとって、ひとつの咎として作用している。なかでも、娘である早希の視線を、特化して考える。早希は、幼少の頃から、父を慕う娘であった。なぜなのか、細川にはよくわからない。だから〈これはなにかの間違いで、いずれ訂正されるはずだ〉と思っている。この、自分のなかに正当性をたしかに見つけられないことが、物語の断片を繋げる糸である。細川は、裸の歩行中に〈人間も世間も社会も、卑小な、くだらないもの、実体のない模造品のように〉思う、これは要するに、ひとりの人間が、自分の外側に、生きていくうえでの確証を感じられない、そのことの言い換えなのではないだろうか。資本制あるいはシステムとでいうべき権力は、70年代から80年代そして90年代それ以降といった時代の移り変わりを経て、徹底されてゆく。また防犯カメラや携帯電話の普及などにより、細川が欲望を叶えにくい環境に、世のなかは整備されてゆく。だが、そうした世相と相反するように、彼の執着はその度合いを増し、たぶん無意識からの要請なのだろうが、じょじょに危険なトライアルに臨むようになる。いささか寓話ふうの結末は、結果的に、人間と自然という安易な二項を導き出してしまっている気がしないでもないけれど、それは、社会の集約として個人があるのか、個人の集積として社会があるのか、といったべつの二項に相関した問題を宙づりにする、そのため、小説自体は明晰な単純化を免れ、読後の鈍い虚脱に感情が絡めとられた。

 『青猫家族輾転録』についての文章→こちら


posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(06年)
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