ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年02月01日
 おやすみ、こわい夢を見ないように

 悪意(あるいは殺意というべきだろうか)は、人のなかに必ずや生じるものである、というのが前提条件だとして、では、それはいったい何を起源とするのだろう、どこからやってくるのであろうか。またはこう言い換えよう。自分と他人とのあいだにはけっして埋められない隙がある、としたら、その隙間が悪意を育むのか、それとも悪意があるから隙間ができるのか、もしかすると、それは、卵が先か鶏が先かといった疑問同様に、永久に解消しえない問いであるのかもしれなかった。

 角田光代の『おやすみ、こわい夢を見ないように』は、7つの短めな小説によって編まれた作品集である。表題作となる「おやすみ、こわい夢を見ないように」のなかで、ある姉弟が携帯電話のメールで送受信する、その文面の最後には、ふたりが幼い頃に発明した「ラロリー」という造語が添えられる。〈ラロリーは未だ残っている数少ない造語で、「おやすみ、こわい夢を見ないように」という意味だ〉。姉は高校で陰湿な嫌がらせに遭っており、弟は部屋に籠もったまま外に出ることがない。彼女らの保護者である両親の仲も、父親の転勤がきっかけとなり、どうもうまくいっていないようだ。母親はやや情緒不安定な調子である。設定としては十分に暗い、けれども、姉である沙織の〈強くなるんだ〉〈強くなってやる〉という意思が、物語を湿っぽいものにしていない。しかし、なぜ強くならなければならないかといえば、学校中から疎外されることの原因となった元恋人を殺してやるために、である。自分に向けられた悪意には悪意をもって抗おうとする、そのような理論が、ある意味で前向きな彼女の姿形を支えている。だが当然のように、悪意をもって悪意に抗うことは、他人と自分とのあいだに、共感や連帯とは異なるが、それでも相似形であるような感情の在り方を見いだすことでもある。それに気づいたとき、少女の視線は転回し、目指される強さは、その意味合いを変えるのだった。

 また一方で、「おやすみ、こわい夢を見ないように」には、浮浪者ともいうべき女性が、ちょうど視界の隅に触れるようなかたちで、登場する。彼女に投影されているものとは何であろうか。じつは、ここに収められたべつの小説「スイート・チリソース」のなかにも、同様に、何かしらかの象徴であるかのような、女性の浮浪者が現れている。あるいは浮浪者ではなくて、得体の知れない、不穏な、と言い換えるならば、そうした女性像は『おやすみ、こわい夢を見ないように』という本全体に遍在して、ある。というか、それは、この作者の作品においては、ときどき顕著となるモチーフだといえるだろう。おそらくは、家族を含めた、ある特定の集団に、回収されない、内包されない、個人の内面における余剰を示唆するものであり、「ここではないどこか」になどけっして到達しえない登場人物たちのネガである。見方によっては、閉塞した環境に束縛されていない分だけ自由であるが、しかし、その自由は帰属先の消失によって成り立っている以上、不安定で、寂しく、発展のない、すでに完結してしまったものに他ならない。

 「私たちの逃亡」においては、川窪理沙という登場人物が、それにあたるだろう。「私たちの逃亡」は、この作品集の最後に置かれた小説で、『おやすみ、こわい夢を見ないように』のうちにあって、例外的に、三人称ではなくて、一人称である〈私〉により語られている。理沙は、〈私〉がまだ田舎に住んでいて、子供だった頃の友人であるが、やはり他人の悪意に曝されたせいで、自分の部屋から出られなくなり、学校という社会からドロップ・アウトしてしまった。その彼女もまた、悪意ある人々に悪意をもって抗おうとするばかりに、〈死ねって感じ〉という呪詛を口癖にしていた。その言葉は、そしてその言葉に含まれる感情は、はたして彼女を救うことがあったろうか。いや、むしろ、その重みは逆に彼女を拘束するのみではなかったか。〈彼女は未来に続く出口を頑丈に締め切り、過去ばかりがひしめく密室で、気にくわなかったひとつひとつを発酵させているように思えた〉。やがて交流もなくなり、成人した〈私〉は、もはや知る術のない理沙のその後をイメージしながら、さりげない日常に揉まれ続けることこそが、自分のなかにある悪意から逃れる唯一の方法だと思う。

・その他角田光代の作品に関して
 『ぼくとネモ号と彼女たち』については→こちら
 「ロック母」については→こちら
 『酔って言いたい夜もある』についての文章→こちら
 『いつも旅のなか』についての文章→こちら
 『人生ベストテン』についての文章→こちら
 『対岸の彼女』についての文章→こちら
 「神さまのタクシー」についての文章→こちら
 『庭の桜、隣の犬』についての文章→こちら
 『ピンク・バス』についての文章→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(06年)
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