ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年01月29日
 西尾維新クロニクル

 宝島社『西尾維新クロニクル』掲載の短編。日本橋ヨヲコがイラストを描いていて、なんとなく、へえ、と思う。海鳥なことイコール〈ぼく〉が、早朝の通学中に、誰もいない電車のなかで一冊の本を読んでいると、同じ車輌に乗ってきた女子高生が隣に座った、そして彼女は〈ぼく〉の手にしている本を臆することなく盗み読む、彼女の名前は沢崎るい江といった。と、この『ある果実』においては、これといった話の筋が存在しているわけではない、いや、ちがうかな、ボーイ・ミーツ・ガールこそが最小にして最大のドラマであるのならば、つまり、そういう物語を取り扱っているとはいえる。冒頭で、作者との相関関係から切り離して、ある作品に接すること、要するに、テクスト論じみたことが語られる、〈ぼく〉の読んでいる小説の作者はじっさいに死んでいるという意味合いで「作者の死」が体現されてたりするわけだが、それは換言すれば、ある作品と読み手とのあいだに生ずる、べつの水準で捉まえ直された、関係の示唆である。その関係に介入してくる、いわば読み手のレベルにおける他者との出会いが、〈あたしは作品と作者が別物であるとは思いませんよ。同じだと思います〉という提案をもたらした場合、それは、読み手とある作品とのあいだにあって、どの水準の、どの位置に代入される変数なのか。〈ぼく〉と彼女とのやり取りのなかで、本質的なことを言い当てているのは、おそらく〈違うというなら人の意思の関与する具合が違うのでしょうね〉といった部分になる。たしかに物事の判断は、すべからく主体性に委ねられるべきであるけれども、そもそも主体などといったものが、他からの影響を受けることなく、完全に自律しているだなんて、実証不可能に近しい。そのパラドクスのクリアにならないことを生きていくうえで、好むと好まざるに関わらず、芽生えてしまう逡巡が〈それは、理想論ですよ?〉といった呟きに固定されている。ところで『ある果実』というのは、たぶん知恵の実のたとえであろう。それを知らなければ、人は、悩むことすらなかったのである。が、しかし、その悩みのうちにある愉悦が、ここでは、読書という行為を〈面白いものが面白くなくなっていく〉過程、ある種の原罪だと見なしても、それをけっして捨てきれないものとして受け入れるという、登場人物たちの姿形に表されているかのように思えた。

・その他西尾維新に関する文章
 「まよいマイマイ」について→こちら
 「ひたぎクラブ」について→こちら
 『ネコソギラジカル(下)青色サヴァンと戯言使い』について→こちら
 『ネコソギラジカル (中) 赤き征裁VS.橙なる種』について→こちら
 『ネコソギラジカル (上) 十三階段』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――最終回「終落」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第五回「五々」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第四回「四季」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第三回「第三」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第二回「二人」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第一回「唯一」』について→こちら
 『ニンギョウがニンギョウ』について→こちら
 「コドモは悪くないククロサ」について→こちら
 「タマシイの住むコドモ」について→こちら
 「ニンギョウのタマシイ」について→こちら
 『新本格魔法少女りすか 2』について→こちら
 『新本格魔法少女りすか』について→こちら

 『総特集 西尾維新』ユリイカ9月臨時増刊号について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(06年)
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