ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2004年12月08日
 「漫画も、小説も。物語をどこまでも楽しむ、新しいかたち」として講談社から創刊された『エソラ』Vol.1に掲載された新作。『エソラ』自体の印象は、吉田修一、氷川透、渡部球といった小説家や、五十嵐大介、真鍋昌平、安彦麻理絵、杉村藤太などのマンガ家が創刊号の他のラインナップとして揃っており、青年向け『ファウスト』といった感じか(や、ちょっと違うけど)。まあそれはともかく。なかでも伊坂幸太郎の小説が、抜群におもしろかったので、それについて書いておきたいと思う。

 話の筋を簡単にとれば、特殊な能力を持った主人公が未来の独裁者に対して孤独な戦いを挑む、という伊坂版『デッドゾーン』である。しかし重要なのは、そこではない。犬養という『魔王』における未来の独裁者は、理屈としては正しすぎるあまり何かを間違えているという意味で、村上龍『愛と幻想のファシズム』であれば鈴原トウジに、村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』であれば綿谷ノボルという人物へと置換することが可能だということだ。しかし『魔王』の主人公安藤は、『愛と幻想のファシズム』のゼロや『ねじまき鳥クロニクル』の「僕」のような、独裁者と対峙しうる特権的な場所には立っていない。あくまでも市井の自意識のいちヴァージョンでしかない。その姿はちょうどマンガ『寄生獣』の主人公であるシンイチを思わせる。なにか大義のためにラスボスとの対決を行うのではなくて、なにも大義がないがゆえに対決を強いられるという図式である。そうして『寄生獣』には、シンイチの行動がじっさいに人類を救ったかどうかというのとはべつのレベルで読み手のほうへと訴えてくるエモーションがあったわけだが、それと同じような構造からくる感動が、この『魔王』にも宿っているのだった。

 ところで。安藤は、十年以上も前のアメリカ製のテレビ・ドラマ『冒険野郎マクガイバー』を自分のロール・モデルに置いていて、「考えろ」という台詞を度々口にするのだが、この「考えろ」の使い方は、ちょっとマクガイバーのものとは違う気がする。たとえばマクガイバーは切羽詰ったときに自分をリラックスさせるように「よーし、考えろ、マクガイバー」というのだが、安藤は逆に「考えろ考えろ」ということで自分を追い込んでいるようなところがある。僕は今でもビデオに12時間分ぐらい録画した『冒険野郎マクガイバー』を所有している人間なので、宮沢賢治の引用とかよりも、そういった点のほうが気にかかった。いや内容とぜんぜん関係なくて、すまない。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書。
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