ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年01月25日
 わたしはあい 3―LOVE&TRUTH (3)

 それを「萌え」というのかどうかは知らないけれど、当初は人工的な創造物に対する一方的な愛情を、双方向に転換させようという試みをベースにしたコメディであった外薗昌也『わたしはあい』であったが、着地点は、人間が本質的に抱える業が世界の終わりを導く(回避する)、といった、もはやこの作者のパターンともいえるものなのだった。それをどう見たらよいか。ギャルゲーの天才的なクリエイター紺野マコトの協力により、芝崎重工は、いよいよ、じつに人間らしいロボット、亜衣=AI2000の完成に近づいた。唯一の懸念事項は、結果的に亜衣に高い順応性と自律性をもたらすこととなった、謎のコンピューター・ウィルスの存在である。重役たちへのデモンストレーションを見事にこなした亜衣を見、その想像以上の出来に不安要素を感じた紺野は、プログラムのチェックを要請する。しかし、それを察した亜衣は、人混みのなかに、その姿を消すのであった。人間の管理下に置かれていたはずの存在が、じつは人間を監視する存在であったという展開は、同作者の『犬神』とほぼ同型だといえる。しかし『犬神』の場合、あくまでもそれは形而上的な審級であったのに対して、『わたしはあい』におけるそれは、形而下を出自としているところが、さらに人間の業の深さを掘り下げている、という見方は、まあ出来なくもない。ただ、そういったシリアスさを、作者は、ここでほんとうに描こうとしていたのか、という部分は、ブラック・ユーモアであるかのようなエンディングを見る限りでは、判然としないところではある。外薗の作品を並べてみれば、人間とは何か? みたいな問いへの答えは、たぶん『ワイズマン』あたりでもう出てしまっている感じがする。それはこの『わたしはあい』でも示されているのだけれども、要するに、人の営みはそれ自体が滅びの過程である、ということだと思う。とはいえ、そこに救いがないと、ただの頽廃になってしまう。では、いったい作者は、何をもって救いとしているのか、といえば『犬神』では宮沢賢治の詩が引用されていたことに顕著であったが、無垢なる「純粋さ」とでもいうべき概念なのだとして、それがここでは、紺野の亜衣に対する一途な姿形が、翻って、軽く明るくポジティヴな振舞いとして見える、そういう描写にかかっているのであった。

 『エマージング』2巻について→こちら
 『エマージング』1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(06年)
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