ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年01月24日
 『小説すばる』2月号掲載。「moonlight mile」というタイトルはやはりストーンズのナンバーからとられているのかな。絲山秋子の連作シリーズ「ダーティ・ワーク」の第三話。死ぬのは怖いことである。その先に何があるのかわからない、あるいは何もないことを知っているので、死ぬのを考えることは怖いことである。昔一度だけ寝て、ふられた女性から、遠井のもとにメールが届いた。悪性リンパ種で、入院しているのだという。彼女の名前は美雪といった、美人ではなかった、牛に似ていた、そして牛のような声で自分のことを「オレ」と言った。病室のベッドの上、数年ぶりに遠井の顔を見て、彼女は笑う。笑う牛(ラ・ヴァッシュ・キ・リ)。それまで遠井は、死を間近にした人間にリアリティを感じたことがなかった。痛みに苦しむ彼女にかける言葉もまた知らなかった。人が生きることのできるのはあくまでも自分の所有する生でしかないのならば、他人の死は他人のもので、自分の死は自分のものであり、そのあいだには境界線が引かれているとして、しかしそれははたして、共有できない、断絶を意味するものだろうか。あまりのつらさに美雪は「オレさ、安楽死を選びたいんだ」と言う。けれども遠井は「それ、だめだ」「日本じゃ無理だよ」と言葉を遮る、〈苦しんでも生きてくれとは言えない。けれどあっさりと死んでほしくはなかった〉ので、どうしてもそれを肯定できないのだ。やがて発作に見舞われる美雪を目の前にして、遠井は自分の不甲斐なさを思う。ここで遠井は、何も言えない人、である。その何も言えないことは、〈美雪の苦しみを真摯に受け止めることができない。いちいち言葉に置き換えることしかできない〉という躊躇いからやってきている。それと対になるのが、発作の止んだ美雪がその解放と今の心境を指していう〈言葉じゃ表せないくらいの気持ちだよ〉という箇所であろう。そのようにして、言葉が持ちうる限界が、二通りの意味合いを持たされている。それは同時に、この小説において、生または死に対するスタンスが、遠井のものと美雪のものとで、二層になっていることでもある。さらにいえば、自分の生(死)と他人の生(死)が、ひとりの人間のなかでは、まったくの同一ではなくて、すこしのずれた二重性をともなっていることへと届いているように思える。

 「ダーティ・ワーク 第二話 sympaty for the devil」についての文章→こちら
 「ダーティ・ワーク 第一話 worried about you」についての文章→こちら

・その他の絲山秋子に関する文章
 『ニート』については→こちら
 「ベル・エポック」については→こちら
 「へたれ」については→こちら
 「沖で待つ」については→こちら
 「ニート」「2+1」については→こちら
 『スモールトーク』については→こちら
 『逃亡くそわたけ』については→こちら
 「愛なんかいらねー」については→こちら
 『袋小路の男』については→こちら
 『海の仙人』については→こちら
 「アーリオ オーリオ」については→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(06年)
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